柴屋町には、人が通ったりすれ違ったりできる程度の細い路地が縦横に延びている。
本項では、そういった路地でアングルに苦心しながら撮影した物件をピックアップ。

左のような細い通路が基本。右のような入り組んだ分岐点もあり、実に複雑怪奇だ。

左のなんでもないような建物間を入っていくと、右の日本的な家並みにたどり着く。

かなりリフォームされているものの、緑色の小壁や欄間は当時のなごりだろう。

二階の壁が薄い緑色。いま見るとスナック風だが、昔はカフェーだったのだろうか。

じつに見事な釣鐘窓。二階の手すりに施された雲形の彫り抜きがかわいらしい。

細い桟が緻密に交差し、まるで篆書(てんしょ)のような配列を生み出している。

山吹色の壁と装飾窓が華やかな和風建築。二階の欄干は非常に手の込んだ造り。
本項では、そういった路地でアングルに苦心しながら撮影した物件をピックアップ。


左のような細い通路が基本。右のような入り組んだ分岐点もあり、実に複雑怪奇だ。


左のなんでもないような建物間を入っていくと、右の日本的な家並みにたどり着く。

かなりリフォームされているものの、緑色の小壁や欄間は当時のなごりだろう。

二階の壁が薄い緑色。いま見るとスナック風だが、昔はカフェーだったのだろうか。


じつに見事な釣鐘窓。二階の手すりに施された雲形の彫り抜きがかわいらしい。

細い桟が緻密に交差し、まるで篆書(てんしょ)のような配列を生み出している。


山吹色の壁と装飾窓が華やかな和風建築。二階の欄干は非常に手の込んだ造り。
遊廓→集娼黙認地
明治33年12月、業者数69、娼妓数152
昭和33年2月、業者数81、従業婦数97

装飾窓や格子など、特徴が満載の建物。丸窓の中で縦に伸びる三本の模様がユニーク。
右へ回ると、二つの入口と釣鐘形の装飾窓を確認できる。

二店舗が合体したような造り。特色は左側の奥まった入口と塗装、右側の大きな丸窓。

横に長い純和風建築。渋い色合いでいて、どこか華やかなムードをあわせ持つ。

角地に堂々とたたずむカフェー建築。しゃれた窓やハート形の手すりがいかにも。

黒い板壁が目を引く。玄関まわりのリフォームが、むしろ全体の経年を際立たせている。
あまり角地らしくない細長の建物だが、それでも充分に角地を意識した設計だ。

右側が和風、左側が若干カフェー風。なぜか娼妓より芸妓がいそうな雰囲気がある。

近代的な造り。看板が取り付けられていたとおぼしき金具の跡が上部に見られる。
撮影時は文句なしのカフェー建築と思っていたのに、写真で見ると自信がなくなってくる。

料亭風の建物。かなり壊れてしまっているが、二階窓の桟に工夫が感じられる。
明治33年12月、業者数69、娼妓数152
昭和33年2月、業者数81、従業婦数97


装飾窓や格子など、特徴が満載の建物。丸窓の中で縦に伸びる三本の模様がユニーク。
右へ回ると、二つの入口と釣鐘形の装飾窓を確認できる。

二店舗が合体したような造り。特色は左側の奥まった入口と塗装、右側の大きな丸窓。

横に長い純和風建築。渋い色合いでいて、どこか華やかなムードをあわせ持つ。


角地に堂々とたたずむカフェー建築。しゃれた窓やハート形の手すりがいかにも。

黒い板壁が目を引く。玄関まわりのリフォームが、むしろ全体の経年を際立たせている。
あまり角地らしくない細長の建物だが、それでも充分に角地を意識した設計だ。

右側が和風、左側が若干カフェー風。なぜか娼妓より芸妓がいそうな雰囲気がある。

近代的な造り。看板が取り付けられていたとおぼしき金具の跡が上部に見られる。
撮影時は文句なしのカフェー建築と思っていたのに、写真で見ると自信がなくなってくる。

料亭風の建物。かなり壊れてしまっているが、二階窓の桟に工夫が感じられる。
赤線→青線
もともとは金津園の疎開地。疎開終了(転出)後は一般住宅街として再出発を果たすも、
残留組や新規参入組の手によって遊里が復活。
当局との攻防もあったが、結局青線街として黙認され、以後、売防法施行まで存続した。
昭和33年1月、業者数18、従業婦数31

整然と区割りされた道路は当時のまま。

いずれ転出する意向だった金津園の業者は、時局を勘案し、派手な外観は避けたという。
そのことを踏まえて現地を歩くと、まず目につくのがこの長屋だ。

竹材の出窓、ひょうたん柄の装飾、いずれも質素で渋い趣向といえる。

長屋二軒。先ほどのような装飾はないものの、雰囲気は感じられる。

こちらはさほど雰囲気が感じられない。あまりにもプレーンだからか。

気になった建物。そういう目で見ると、カフェー風のアレンジに見えてしまう。
もともとは金津園の疎開地。疎開終了(転出)後は一般住宅街として再出発を果たすも、
残留組や新規参入組の手によって遊里が復活。
当局との攻防もあったが、結局青線街として黙認され、以後、売防法施行まで存続した。
昭和33年1月、業者数18、従業婦数31


整然と区割りされた道路は当時のまま。

いずれ転出する意向だった金津園の業者は、時局を勘案し、派手な外観は避けたという。
そのことを踏まえて現地を歩くと、まず目につくのがこの長屋だ。


竹材の出窓、ひょうたん柄の装飾、いずれも質素で渋い趣向といえる。


長屋二軒。先ほどのような装飾はないものの、雰囲気は感じられる。

こちらはさほど雰囲気が感じられない。あまりにもプレーンだからか。


気になった建物。そういう目で見ると、カフェー風のアレンジに見えてしまう。