8月14日、岐阜~愛知めぐりの帰途。
電車に揺られながら窓の外の景色を眺めていると、蒲郡駅を過ぎたあたりで
一種異様な光景が目に入った。
新しい建物ばかりの町並みの中に、古色蒼然とした建物が三軒ほど並んでいる。
見えたのは一瞬だったが、明らかに周囲から浮き上がっていた。
気になったので、今回の往路で電車内からもう一度確かめてみることに。
(2011年8月27日撮影)
やはり相当古い。妓楼ではないかという期待もあったが、そういう建物ではないようだ。
そして復路。もっとしっかり見たいと思い、今度は電車から降りる。
予想どおり妓楼ではないと再確認。
洋風の物件。現役のオフィスのようで、明かりがついていた。
重厚な日本家屋の二軒。年代を感じるが、手入れが行き届いている。個人宅だろう。
周辺を歩く。気になる物件は特になし。写真は散策中に見かけた古いスナック。
電車に揺られながら窓の外の景色を眺めていると、蒲郡駅を過ぎたあたりで
一種異様な光景が目に入った。
新しい建物ばかりの町並みの中に、古色蒼然とした建物が三軒ほど並んでいる。
見えたのは一瞬だったが、明らかに周囲から浮き上がっていた。
気になったので、今回の往路で電車内からもう一度確かめてみることに。
(2011年8月27日撮影)
やはり相当古い。妓楼ではないかという期待もあったが、そういう建物ではないようだ。
そして復路。もっとしっかり見たいと思い、今度は電車から降りる。
予想どおり妓楼ではないと再確認。
洋風の物件。現役のオフィスのようで、明かりがついていた。
重厚な日本家屋の二軒。年代を感じるが、手入れが行き届いている。個人宅だろう。
周辺を歩く。気になる物件は特になし。写真は散策中に見かけた古いスナック。
遊廓→集娼黙認地
明治33年12月、業者数16、娼妓数39
昭和5年ごろ、業者数15、娼妓数55
昭和33年2月、業者数12、従業婦数26
遊里につきものの銭湯。よじむ湯という名前がおもしろい。
独特の構造と彩色。窓にもひと工夫が見られ、普通の住宅ではない雰囲気。
なぜかこのあたりには、上記と同じ形状の建物が固まっている。この建物もその一つ。
壁には赤塗りの痕跡が若干。かつては派手な色彩で通行人の注意を引いたのだろうか。
墨色の板が映える。二階の欄間の彫り抜きなど、小さい店ながらも特徴的。
その隣、こちらはカフェー建築。きれいに塗装されているが、相当古い建物だろう。
旅館風の木造二階建て。場所柄から考えて、単なる旅館ではないように思える。
驚くべき規模。表は和風、裏はカフェー風、そのあいだにも数軒の店がひしめき、
それらが全部つながって一軒の建物を形づくっている。
転業旅館風。往時の建物をリフォームし、いまは一般住宅として利用している模様。
明治33年12月、業者数16、娼妓数39
昭和5年ごろ、業者数15、娼妓数55
昭和33年2月、業者数12、従業婦数26
遊里につきものの銭湯。よじむ湯という名前がおもしろい。
独特の構造と彩色。窓にもひと工夫が見られ、普通の住宅ではない雰囲気。
なぜかこのあたりには、上記と同じ形状の建物が固まっている。この建物もその一つ。
壁には赤塗りの痕跡が若干。かつては派手な色彩で通行人の注意を引いたのだろうか。
墨色の板が映える。二階の欄間の彫り抜きなど、小さい店ながらも特徴的。
その隣、こちらはカフェー建築。きれいに塗装されているが、相当古い建物だろう。
旅館風の木造二階建て。場所柄から考えて、単なる旅館ではないように思える。
驚くべき規模。表は和風、裏はカフェー風、そのあいだにも数軒の店がひしめき、
それらが全部つながって一軒の建物を形づくっている。
転業旅館風。往時の建物をリフォームし、いまは一般住宅として利用している模様。
袋町の取りこぼし的なものを拾いつつ紹介。
袋町は旧町名。現在は町内会館にその名を見ることができる。右隣は友代稲荷。
完全にスナック・クラブ街に変貌を遂げている。性風俗産業の匂いはまったくない。
「彦根社交同業組合」という飲食店組合の看板を散策中に見かけた。
もし過去に風俗店があったとすればこの二軒だろうか。いまは住居兼スナックの模様。
不思議なカーブ。カフェー建築ではなく、単に階段をポップに仕上げたものだろう。
なんと入口が四つも。間取りがどうなっているのか興味深い。
カフェーのような、理容店のような、どちらかといえば後者のように思える。
現役とおぼしき旅館が芹川沿いに二軒。転業旅館だろうか。
袋町は旧町名。現在は町内会館にその名を見ることができる。右隣は友代稲荷。
完全にスナック・クラブ街に変貌を遂げている。性風俗産業の匂いはまったくない。
「彦根社交同業組合」という飲食店組合の看板を散策中に見かけた。
もし過去に風俗店があったとすればこの二軒だろうか。いまは住居兼スナックの模様。
不思議なカーブ。カフェー建築ではなく、単に階段をポップに仕上げたものだろう。
なんと入口が四つも。間取りがどうなっているのか興味深い。
カフェーのような、理容店のような、どちらかといえば後者のように思える。
現役とおぼしき旅館が芹川沿いに二軒。転業旅館だろうか。
遊廓→集娼黙認地
明治33年12月、業者数50、娼妓数49
昭和5年ごろ、業者数65、娼妓数85
昭和33年2月、業者数40、従業婦数51
「末廣」という袖看板が残る木造建築。二階の窓はなぜか完全に塞がれている。
一階は細やかな格子窓。現在は茶色だが、昔は赤系の色だったのではないだろうか。
べんがら色がいまなお鮮やか。裸電球や出格子が往年の姿を保っている。
遺構をリフォームして造られたスナックだろう。開いた玄関から人の気配がした。
あちこち手が加えられているものの、景観に配慮しているのか、雰囲気は充分健在。
左下の小さな祠は、商売繁盛を祈願して建てられたものだろうか。
長屋風の木造建築。玄関脇には、雨を描写したようなデザインのタイルが張られている。
どぎついほどの紅色は妖しげでインパクトが大きい。二階の張り出しにも圧倒される。
玄関には「A級旅館」の表示。はじめて見る言葉だ。「高級」「第一級」的な意味だろうか。
レトロな和風建築が両脇に延びる。まるで文化財を見ているかのような光景だ。
一階がスナックに改装されているが、二階に目を転じると和風の意匠がそのまま。
丸窓や白壁、木目調の羽目板など、全体的に小粋な特徴を持つ建物になっている。
明治33年12月、業者数50、娼妓数49
昭和5年ごろ、業者数65、娼妓数85
昭和33年2月、業者数40、従業婦数51
「末廣」という袖看板が残る木造建築。二階の窓はなぜか完全に塞がれている。
一階は細やかな格子窓。現在は茶色だが、昔は赤系の色だったのではないだろうか。
べんがら色がいまなお鮮やか。裸電球や出格子が往年の姿を保っている。
遺構をリフォームして造られたスナックだろう。開いた玄関から人の気配がした。
あちこち手が加えられているものの、景観に配慮しているのか、雰囲気は充分健在。
左下の小さな祠は、商売繁盛を祈願して建てられたものだろうか。
長屋風の木造建築。玄関脇には、雨を描写したようなデザインのタイルが張られている。
どぎついほどの紅色は妖しげでインパクトが大きい。二階の張り出しにも圧倒される。
玄関には「A級旅館」の表示。はじめて見る言葉だ。「高級」「第一級」的な意味だろうか。
レトロな和風建築が両脇に延びる。まるで文化財を見ているかのような光景だ。
一階がスナックに改装されているが、二階に目を転じると和風の意匠がそのまま。
丸窓や白壁、木目調の羽目板など、全体的に小粋な特徴を持つ建物になっている。
遊廓→集娼黙認地
明治33年12月、業者数10、娼妓数27
昭和5年ごろ、業者数10、娼妓数30
昭和33年2月、業者数12、従業婦数39
メイン通り。突然幅広になる道路は遊廓ではおなじみ。
この界隈で一番の規模。現存しない建物を含めても、きっと大店の部類だったであろう。
あちこち改築の手が加わっているとはいえ、往時の面影をよく残している。
その名も開盛楼。「楼」とつくとどうしても妓楼を想像しがちだが、はたして。
もっとも遊里の風情を感じられる和風建築。丸窓や桟の細工が目を引く。
松皮菱の装飾窓が二階に。撮影中はアングルに四苦八苦していて気づかなかった。
全体が見えなくて残念だが、偶然写っていただけでも幸運と考えるべきだろう。
廓入口あたりの水子地蔵尊。場所が場所だけに、娼婦の堕胎を連想してしまう。
明治33年12月、業者数10、娼妓数27
昭和5年ごろ、業者数10、娼妓数30
昭和33年2月、業者数12、従業婦数39
メイン通り。突然幅広になる道路は遊廓ではおなじみ。
この界隈で一番の規模。現存しない建物を含めても、きっと大店の部類だったであろう。
あちこち改築の手が加わっているとはいえ、往時の面影をよく残している。
その名も開盛楼。「楼」とつくとどうしても妓楼を想像しがちだが、はたして。
もっとも遊里の風情を感じられる和風建築。丸窓や桟の細工が目を引く。
松皮菱の装飾窓が二階に。撮影中はアングルに四苦八苦していて気づかなかった。
全体が見えなくて残念だが、偶然写っていただけでも幸運と考えるべきだろう。
廓入口あたりの水子地蔵尊。場所が場所だけに、娼婦の堕胎を連想してしまう。