赤線→青線
もともとは金津園の疎開地。疎開終了(転出)後は一般住宅街として再出発を果たすも、
残留組や新規参入組の手によって遊里が復活。
当局との攻防もあったが、結局青線街として黙認され、以後、売防法施行まで存続した。
昭和33年1月、業者数18、従業婦数31
整然と区割りされた道路は当時のまま。
いずれ転出する意向だった金津園の業者は、時局を勘案し、派手な外観は避けたという。
そのことを踏まえて現地を歩くと、まず目につくのがこの長屋だ。
竹材の出窓、ひょうたん柄の装飾、いずれも質素で渋い趣向といえる。
長屋二軒。先ほどのような装飾はないものの、雰囲気は感じられる。
こちらはさほど雰囲気が感じられない。あまりにもプレーンだからか。
気になった建物。そういう目で見ると、カフェー風のアレンジに見えてしまう。
もともとは金津園の疎開地。疎開終了(転出)後は一般住宅街として再出発を果たすも、
残留組や新規参入組の手によって遊里が復活。
当局との攻防もあったが、結局青線街として黙認され、以後、売防法施行まで存続した。
昭和33年1月、業者数18、従業婦数31
整然と区割りされた道路は当時のまま。
いずれ転出する意向だった金津園の業者は、時局を勘案し、派手な外観は避けたという。
そのことを踏まえて現地を歩くと、まず目につくのがこの長屋だ。
竹材の出窓、ひょうたん柄の装飾、いずれも質素で渋い趣向といえる。
長屋二軒。先ほどのような装飾はないものの、雰囲気は感じられる。
こちらはさほど雰囲気が感じられない。あまりにもプレーンだからか。
気になった建物。そういう目で見ると、カフェー風のアレンジに見えてしまう。
遊廓→RAA施設→赤線
花街と混在していた遊里。さらには射的場や雀荘といった娯楽施設が加わって
一大歓楽街を形成していた。
昭和30年、業者数15、従業婦数59
新川町駅から歩いていくと、まず目に入るのがこの建物。全体が薄赤色をしている。
以前は二階の角に「旅館八千久」と書かれた袖看板がかかっていた。
華やかな赤壁の和風建築。くすんだ木材の色と調和して、落ち着いた雰囲気さえ持つ。
一階の引っ込んだ部分に、だ円形とひし形の飾り窓が見られる。
転業旅館(ホテル)だろう。当時の記録に「鈴本」の屋号が載っている。「翠扇」は不明。
右隣の建物と渡り廊下を介してつながっている建物。
腰まわりには独特のデザインがあしらわれている。これは車輪だろうか。
カーブ面の窓の造作が見事。「鱗窓」と表現している記事を見つけ、なるほどと納得。
鱗窓の右側壁面に判読不能の文字。「文首」「文並」「文善」……わからない。
「寸楽」の看板と駐車場。可憐なぼんぼりがかつてのきらびやかな時代を感じさせる。
建物は数年前に解体されてしまったらしい。
花街と混在していた遊里。さらには射的場や雀荘といった娯楽施設が加わって
一大歓楽街を形成していた。
昭和30年、業者数15、従業婦数59
新川町駅から歩いていくと、まず目に入るのがこの建物。全体が薄赤色をしている。
以前は二階の角に「旅館八千久」と書かれた袖看板がかかっていた。
華やかな赤壁の和風建築。くすんだ木材の色と調和して、落ち着いた雰囲気さえ持つ。
一階の引っ込んだ部分に、だ円形とひし形の飾り窓が見られる。
転業旅館(ホテル)だろう。当時の記録に「鈴本」の屋号が載っている。「翠扇」は不明。
右隣の建物と渡り廊下を介してつながっている建物。
腰まわりには独特のデザインがあしらわれている。これは車輪だろうか。
カーブ面の窓の造作が見事。「鱗窓」と表現している記事を見つけ、なるほどと納得。
鱗窓の右側壁面に判読不能の文字。「文首」「文並」「文善」……わからない。
「寸楽」の看板と駐車場。可憐なぼんぼりがかつてのきらびやかな時代を感じさせる。
建物は数年前に解体されてしまったらしい。