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遊里跡の探訪録など。
ブログの日時は、行動日・撮影日に合わせております。

伊藤織喜商店

2011年08月27日 18時20分00秒 | 建物・建造物
手力園からの帰り、立派な和風建築を見つけた。


先ほどまでシンプルな建物ばかり見ていたので、豪壮な建物が新鮮に映る。


それにしても、商売をやっているようには見えない。


通用門と思われる。

 
門の両脇に恵比寿と大黒天。このあたりは商店らしい。


裏から。城下町を彷彿させるたたずまい。

秋葉神社

2011年08月27日 18時00分00秒 | 寺社・教会
手力町にある小さな神社。

 
公民館の一画にこぢんまりとたたずむ。


昭和27年5月3日建立とある。手力園として青線地帯を形成していた時期だろうか。


神社名の右側、「○和記念」の○の部分が読めない。
手力園にまつわる記念だったらと空想。

岐阜 手力園

2011年08月27日 17時30分00秒 | ◆東海
赤線→青線
もともとは金津園の疎開地。疎開終了(転出)後は一般住宅街として再出発を果たすも、
残留組や新規参入組の手によって遊里が復活。
当局との攻防もあったが、結局青線街として黙認され、以後、売防法施行まで存続した。
昭和33年1月、業者数18、従業婦数31

 
整然と区割りされた道路は当時のまま。


いずれ転出する意向だった金津園の業者は、時局を勘案し、派手な外観は避けたという。
そのことを踏まえて現地を歩くと、まず目につくのがこの長屋だ。

 
竹材の出窓、ひょうたん柄の装飾、いずれも質素で渋い趣向といえる。

 
長屋二軒。先ほどのような装飾はないものの、雰囲気は感じられる。


こちらはさほど雰囲気が感じられない。あまりにもプレーンだからか。

 
気になった建物。そういう目で見ると、カフェー風のアレンジに見えてしまう。

碧南 衣浦荘

2011年08月27日 14時50分00秒 | ◇愛知
遊廓→RAA施設→赤線
花街と混在していた遊里。さらには射的場や雀荘といった娯楽施設が加わって
一大歓楽街を形成していた。
昭和30年、業者数15、従業婦数59


新川町駅から歩いていくと、まず目に入るのがこの建物。全体が薄赤色をしている。
以前は二階の角に「旅館八千久」と書かれた袖看板がかかっていた。

 
華やかな赤壁の和風建築。くすんだ木材の色と調和して、落ち着いた雰囲気さえ持つ。
一階の引っ込んだ部分に、だ円形とひし形の飾り窓が見られる。

 
転業旅館(ホテル)だろう。当時の記録に「鈴本」の屋号が載っている。「翠扇」は不明。

 
右隣の建物と渡り廊下を介してつながっている建物。
腰まわりには独特のデザインがあしらわれている。これは車輪だろうか。


カーブ面の窓の造作が見事。「鱗窓」と表現している記事を見つけ、なるほどと納得。


鱗窓の右側壁面に判読不能の文字。「文首」「文並」「文善」……わからない。

 
「寸楽」の看板と駐車場。可憐なぼんぼりがかつてのきらびやかな時代を感じさせる。
建物は数年前に解体されてしまったらしい。

新田白山神社

2011年08月27日 12時00分00秒 | 寺社・教会
昭和園近くの神社。遊廓(赤線)との縁は確認できず。

こうやって「関係性はない」というような結果ばかり書いていると、
はたしてこの報告に意味はあるのかと弱気になってしまう。
しかし、「無関係」と書き留めることにも何がしかの意義はあるだろうと考え、
これからもぼちぼち記録していくことにする。
(寺社・教会カテゴリーの定義があいまいになっているが、そこはご勘弁を)