戦後平塚では、RAA(特殊慰安施設協会)の指揮の下、進駐軍向けの慰安施設として、
遊廓やキャバレー、ダンスホールを用意した。(遊廓についてはこちら)
キャバレーは桧扇町にあったという。
桧扇町という地名は消滅したが、いまでもバス停や電柱にその名を見ることができる。
春日神社。キャバレーは神社の裏手に位置した。
裏手というとこのあたりか。国道1号線沿いになっており、当時を偲ぶことは難しい。
なお、そのころの国道1号線はもっと南側(旧東海道)にあった。
ダンスホールは、旧・海軍火薬廠の武道場が転用された。
平成7年まで横浜ゴムの敷地内に現存した記録があるものの、その後は定かではない。
遊廓やキャバレー、ダンスホールを用意した。(遊廓についてはこちら)
キャバレーは桧扇町にあったという。
桧扇町という地名は消滅したが、いまでもバス停や電柱にその名を見ることができる。
春日神社。キャバレーは神社の裏手に位置した。
裏手というとこのあたりか。国道1号線沿いになっており、当時を偲ぶことは難しい。
なお、そのころの国道1号線はもっと南側(旧東海道)にあった。
ダンスホールは、旧・海軍火薬廠の武道場が転用された。
平成7年まで横浜ゴムの敷地内に現存した記録があるものの、その後は定かではない。
再訪2回目。
大通り。往時はこの左右に妓楼が並んでいた。
大鷲(おおとり)神社。遊廓の裏門に祀られていたものを、大鳥公園の一角に移転。
毎年11月の酉の日には、「酉の市」という祭りが催される。
大鷲神社の手水石。奉納者の平田氏は、八幡大門近隣の有力者だろう。
彼こそ平塚屈指の大楼、平田楼楼主ではないかという推測は、さすがに夢を見すぎか。
平塚遊廓には「つたや質店」「岡野質店」という二つの質屋があった。
つたや質店はいまなお現役で、左上の写真に電柱看板が写っている。
その電柱の後ろの建物が旧・岡野質店。蔵と看板の跡が質屋のなごりをとどめている。
前回訪問時、業者がいて改装中かと思った旧・旅館きみの。(記事はこちら)
どうやら業者の事務所になったというのが真相のようだ。
大通り。往時はこの左右に妓楼が並んでいた。
大鷲(おおとり)神社。遊廓の裏門に祀られていたものを、大鳥公園の一角に移転。
毎年11月の酉の日には、「酉の市」という祭りが催される。
大鷲神社の手水石。奉納者の平田氏は、八幡大門近隣の有力者だろう。
彼こそ平塚屈指の大楼、平田楼楼主ではないかという推測は、さすがに夢を見すぎか。
平塚遊廓には「つたや質店」「岡野質店」という二つの質屋があった。
つたや質店はいまなお現役で、左上の写真に電柱看板が写っている。
その電柱の後ろの建物が旧・岡野質店。蔵と看板の跡が質屋のなごりをとどめている。
前回訪問時、業者がいて改装中かと思った旧・旅館きみの。(記事はこちら)
どうやら業者の事務所になったというのが真相のようだ。