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みみずのしゃっくり

みみずのしゃっくりのように役に立たないことを不定期に書き込むブログ。
専属スターはいませんが、猫っぽい内容です。

バビ・ヤール

2022-11-01 | その他


あるいはエステル」の続きです。長いです。ごめんなさい

「あるいはエステル」というのは、著者の父親の祖母、つまり大まかに言って著者の曾祖母のことです。父親は祖母の名前を「あるいはエステルだったかな」とうろ覚えです。著者は父親に対して「なんで祖母の名前を憶えていないの」と非難しますが、無理もないのです。父親が10才だった頃までしか祖母を知らず、当時はいつも「おばあさん」と呼びかけ、父親の両親は「おかあさん」と呼びかけていたので、名前を繰り返し記憶に刻み込む時間がなかったのです。

戦争が始まって一家は避難するのですが、「あるいはエステル」は家に残りました。足が不自由で、とても長旅は無理だったからです。避難する家族も、すぐ帰って来る予定でした。しかし彼らはヨーロッパ各地をさまよい、実際に戻ってきたのは7年後のことでした。

「あるいはエステル」は既に数年来外出することはなく、ドイツ軍がキーウ(当時はキエフ)を占領した夏も自宅にこもりきりでした。近所の人が買い物などを引き受けていたのでしょう。


現在のバビ・ヤールの様子




1941年9月28日、ドイツ軍により「市内の全てのユダヤ人は身分証明書などの書類、貴重品、着替えの衣類を持って所定の場所に集合するべし」という通告書が市内各地に貼りだされます。ユダヤ系市民は「強制移住」させられるのだと思い、支度をして集合しました。「あるいはエステル」は、その中には含まれていませんでした。ビルの管理人は提出するユダヤ人名簿に「あるいはエステル」の名を入れず、近所の人たちも、肢の不自由な「あるいはエステル」を引き留めますが、彼女は律儀に通りに出て、イディッシュ語でドイツ軍将校に話しかけます。将校は即座に彼女を銃殺しました。これを目撃した人がいたため戦後「あるいはエステル」」の最期の様子が伝えられたのです。


バビ・ヤール近郊の並木道




所定の場所に集合したユダヤ系市民はバビ・ヤールに連行され、貴重品、衣類などを所定の場所に置かされ、更に服を全て脱ぐように指図され、崖のふちに並ばされると、機関銃と自動小銃によって次々と銃殺されました。9月29日と30日の2日間で3万3771人が殺害されました。一か所で短期間に行われた大量虐殺としては第二次世界大戦中最大の戦争犯罪です。日本語Wikiにかなり詳しく紹介されています。

この大量虐殺を辛うじて逃れた数少ない生き残りは戦後、戦争犯罪裁判で貴重な証言をしました。
とりわけロシア人作家アナトリー・クズネツォフは、厳しい検閲にもかかわらず雑誌にバビ・ヤールの大量虐殺について発表し、後にペンクラブの会合でロンドンへ行った折、そのまま亡命します。このとき彼は未検閲の貴重な原稿を全て持ち出すことに成功しました。その後1979年、クズネツォフは謎の交通事故で亡くなりました。近年の暗殺事件から推測すると交通事故に偽装した暗殺ではないかと思われます。

帝政ロシアからソ連そして現代まで、ロシアにおける反ユダヤ主義は根強いものです。


バビ・ヤールで虐殺されたユダヤ人を追悼するメノーラ形の慰霊碑





エステルはユダヤ史上、ユディトと並ぶ女傑です。
ショスタコーヴィチエフトシェンコの詩を取り入れ交響曲第13番「バビ・ヤール」を作曲しています。

「あるいはエステル」には他にもドラマチックなエピソードが色々ありますが、そのうち書くかも、書かないかも知れません




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