今日は何の日?

昔の今日は何があったのでしょうか?ちょっとのぞいてみましょう。

加藤保男エベレスト冬季単独登頂(1982/12/27)

1982-12-27 00:00:00 | 地学系
1982/12/27

インドの北にあるヒマラヤ山脈は、標高8000mを越える山々が連なる巨大山脈です。かつて大陸はひとつになっていましたが、2億年前頃から地球内部の動きにより、大陸は引き裂かれて裂け目ができたと考えられています。インドはアフリカを離れて北上し、ユーラシア大陸に衝突しました。そのときの海底が押し上げられて、ヒマラヤ山脈ができました。現在でもヒマラヤ山脈は、年間3mm程度隆起しているそうです。

エベレストはヒマラヤ山脈にある最高峰の山で、標高8848mと言われています。高度が高くなるにつれ、気温や気圧が下がるばかりでなく酸素濃度も低くなり、標高7500mを越えると、酸素濃度は平地の約3分の1になります。登山家は酸素欠乏による高山病と、寒さによる凍傷と闘いながら、頂上を目指しているのです。

天才クライマーと言われた加藤保男は、1982年12月27日午後3時55分、ネパール政府公認の「厳冬期エベレスト」に登頂した世界最初のクライマーです。彼は春、秋、冬、3回エベレストを制した「三冠王」という偉業をも成し遂げています。
エベレスト初登頂の時、彼は凍傷のため両足指と右手中指、薬指、小指の計13本の指を切断しました。4級の障害者に認定されましたが、再び山に登りたいという強い意志でリハビリを続け、執念で登山家としての復帰を成し遂げています。
エベレストをネパール側と中国側から頂上を極めた彼は、次の目標を「厳冬期の単独登頂」と決めました。ネパール政府が、危険だとして禁止していた冬のエベレスト挑戦を、解禁したのは1979年でした。

11月20日、彼は大宮の自宅を出発し、カトマンズに向かいました。当時彼には婚約者もあり、そのためにも決して山では死ねないと思ったに違いありません。
12月12日にベースキャンプからC1へ、17日C2、22日C3からC4を設営、翌23日は最初の頂上アタックでした。しかし、テントに頭から転がり込んできた保男のアイゼンは片方脱げ落ち、顔は紫色に変色して、放心状態、目はうつろだったそうです。想像を絶する強風と氷壁に破れ、1回目のアタックは失敗に終わりました。
12月27日、彼は2度目のアタックを敢行しました。強風の中、急な雪稜で両手両足で四つんばいになって登りながら、自分を奮い立たせ、ひたすら頂上をめざして登り続けました。5時間連絡が途切れたまま日はすでに没し、全キャンプに沈痛な空気が漂い始めたとき、午後7時50分、加藤から頂上に立ったという交信が入りました。その後何度か交信を交わし、元気であることを確認していましたが、その夜天候が急変し、テントが吹き飛ばされるほどの強風でそれっきり加藤との交信は途絶えました。

1983年4月9日に、加藤保男と共に登頂を目指した小林利明の慰霊碑が、エベレストを見上げるタンボチェの丘に建てられました。彼らは今も、エベレストの山頂付近に眠っています。

2005.11.24 作成 KS