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なぜ古事記・日本書紀には卑弥呼が出てこないのか? ー記紀編纂の時代背景を読み解くー

2015年04月13日 | 日本古代史散策

日本の古代史、とりわけ古代倭国の成り立ちを文献史学の観点から知ろうとしても、限られた文献資料しかない。中国の史書としては、1世紀頃の倭国の様子を記述した後漢書東夷伝、3世紀の倭国の様子を記述した三国志魏志倭人伝と、その後の5世紀の晋書、宋書などがある。一方、倭国側(日本側)では8世紀初期に編纂された古事記、日本書紀くらいである。その元となったと言われる帝記(大王の記録)、旧辞(各氏族豪族の記録)については4~5世紀の編纂だが、現存していない。

 

ところが厄介なのは、これら数少ない文献資料であるこの中国の史書にある記述と、日本の記紀の記述とのあいだに共通点がなかなか見出せない事である。中国の史書より後に編纂された記紀に(史書を参照したと思われる「一書に曰く」が散見されるにもかかわらず)、本文に中国側の史書に記された内容が全く反映されていない。逸失してしまった帝記、旧辞には共通点があったのだろうか?それを記紀編纂で「誤りを正す」として改ざんしたのだろうか?資料が残っていない今となっては確認しようもない。 例えば,記紀には邪馬台国も卑弥呼も出て来ない。奴国や伊都国の存在にも言及していない。奴国王が後漢の光武帝に朝貢して「漢委奴国王」の金印をもらった(江戸時代になって志賀島から発掘され、奇しくも後漢書の記述を証明する物証が出た訳だ。)ことも、倭国王(伊都国王?)帥升が遣使したことも、卑弥呼が魏の明帝に遣使して「親魏倭王」の印綬をもらった事も記述がない。

 

何故なのか?

 

一説に曰く,後漢書や魏志倭人伝に出てくる,奴国、伊都国、邪馬台国などの筑紫の国々の王権(いわばチクシ王権)と大和地方に興ったヤマト王権とは、別の系統で、王統の系譜に連続性はないからだとする。したがってヤマト王権、やがては大和朝廷の正史である日本書紀にも、天皇の記である古事記にも、九州チクシ王権の話は出て来ないのだ、と。気になる説ではあるが、果たしてそうであろうか。これに反論する充分な材料を持ち合わせていないので,ここではそういう説もある事を紹介するに留めるが、知る限り,ヤマト王権がチクシ王権を打倒したという証拠もない。また逆に、チクシ王権が東遷してヤマト王権を樹立したという明確な証拠もない。史書に出てくる「倭国大乱」や、記紀に出てくる「神武東征神話」「筑紫磐井の乱」などの検証が必要だろう。

 

では何故なのか?歴史書というものは必ずしも史実を客観的に記述するものではない。むしろ、天皇の記である古事記にしても、天皇が支配する新興国家「日本」の正史である日本書紀も、政治的な権威と意思を表明するため編纂されたものである。その時点での「正しい歴史認識」の定本として編纂された。日本書紀や古事記を読み解くには、それが編纂された時代背景、政治背景を知らねばならない。この間の歴史を述べるのが本稿の目的ではないので、詳細は省略するが、簡単いうと、時代は、645年の乙巳の変、663年の白村江での敗戦、672年の壬申の乱を経て、天武天皇即位。天武/持統天皇時代。「倭国」から「日本」へ、大宝律令の制定、天皇中心の新国家体制の確立、といういわば「大宝維新」の時代であった。

(参考:以前書いたブログ:讃良大王(ささらのおおきみ)持統天皇、維新大業の足跡をたどる

 

背景としては以下のような事情があったと考えるべきだろう。

 

国内的事情:

*氏族・豪族集合体国家(いやまだ国家の体をなしていなかった)から天皇を中心とした中央集権的な国家体制の確立へ。

*氏族に共立された大王(おおきみ)から神の子孫、天皇(すめらみこと)へ。

*律令制(大宝律令)による法治国家の確立。

*私地私民制から公地公民制へ(氏族豪族の経済・権力基盤を崩す)。

*八百万の神々(各地の氏族・豪族の神々)から、皇祖神天照大神を最高神とする神々の世界の体系化。

 

対外的事情:

*白村江の敗戦後の国家基盤の建て直しと富国強兵策。いわば安全保障体制整備。

*中国の唐帝国とは一線を画した独立した倭國、いや新しい「日本」を宣言(国家としてのアイデンティティーの表明)。

*天から降臨した神の子孫である「天皇」(天帝)が統治する国家の宣言。 *すなわち、これまでは地上世界を支配する天帝は中華皇帝しかいなかった。蛮夷の国々はその徳を慕って朝貢し、皇帝からその地域の支配圏を認証してもらう(冊封体制)という華夷思想が、この東アジア的宇宙観、世界秩序であった。そこにあらたなもう一つの宇宙の存在を宣言した。

 

したがって倭國、日本の起源は、決して中国皇帝に朝貢し、よって冊封された王たち、すなわち後漢書東夷伝や魏志倭人伝に記述されているような(自ら名乗ったわけでもない)「倭」の奴国王や伊都国王、邪馬台国女王卑弥呼などを頂く国ではない。祖先が大陸からの渡来人たちで、彼等の子孫が北部九州や日本列島に移住して形成したムラ、クニが起源の国ではない。天皇は天から降臨した神の子孫である。太陽神•農耕神アマテラスの子孫である。すなわち自らがその統治の権威と権力を有する存在であって、決して中国皇帝から柵封された(権威を保証された)「蛮夷の王」ではないぞ、と。そういう「歴史観」(あるいは主張)が記紀の基本となるメッセージであったと考える。

 

倭国/日本の文明はどこから来たのか?

 

しかし、そのような正史「日本書紀」に書かれた公式ストーリーにもかかわらず、稲作農耕文化が大陸から伝搬してきたこと、鉄資源を大陸に求めるなど、倭国の文明は大陸由来であることは否定しがたい事実である(北部九州を中心に考古学的発掘がそれを証明している)。そもそも「日本書紀」を記述する文字自体が中国からの輸入によるもの。日本書紀は漢文体で、主要な部分は渡来系の史人によって正しい漢文で書かれている。新生「日本」は、世界思想としての仏教を鎮護国家の法とし、中国の律令制を導入した。大陸文化の流入/受容により倭国が形成されてきた、というのが「正しい歴史認識」であろう。しかし、歴史とは、常にその時の政治意図に基づいて解釈され利用され創作されるものだ。まして新興「日本」が対外的にその国のアイデンティティーを主張しようという「正史」においておやである。そこで、「大陸由来」「渡来人」という代わりに、「天から降臨してきた神によって創造されしもの」とした。天孫降臨神話の創出である。

 

こうした王権が天や神に由来するという国家創造神話は珍しいものではない。朝鮮半島の初期王朝にも穀霊神が天から降りてきてその子孫が王であるという神話がある。後世のヨーロッパにおける王室の権威も、神の子孫だと主張しないまでも、神から与えられた権威/権力という王権神授説から来ている。皇帝、王や天皇という世俗の最高権威は、それを越える天地創造神の存在によってのみ維持されるものなのだ。

 

ちなみに、大陸における様々な戦争、政治的闘争、王朝交代の結果,倭国に渡来して来た(亡命して来た、難民として渡って来た)人々がいる。その他にも大陸と日本列島との間には様々な人の行き来があった。彼等が倭国に様々な技術や文化,ライフスタイルをもたらした。しかし、記紀における解釈は、彼等は、決して亡命や難民としてやって来たのではなく、天皇の徳を慕って、倭国(日本)へ渡来した「帰化人」であるとする。これはまさに中国の華夷思想を我が国に持ち込んだものだ。

 

このような背景,すなわち中華世界に対抗する「日本版の中華思想」に基づき編纂された記紀である,という前提に立てば,中国の史書をそのまま引用しない訳が分かる。ゆえに記紀では後漢や魏に朝貢した奴国王も倭王(伊都国王?)帥升も邪馬台国卑弥呼も、宋書に記述されている倭の五王も出てこない。記紀編纂にあたり中国の史書を読んだ形跡はあるが、「不都合な真実」を本文には引用はしない。あくまでも中華帝国とは独立した帝国であることを強調する意図があったのだろう。

 

では記紀は「倭国」いや「日本」のルーツはどこだと考えているのだろう。

 

記紀の建国神話によれば、天孫降臨の地(ニニギ降臨の地)は、「筑紫の日向(ひむか)の高千穂のクシフル岳」とある。これは南九州、現在の宮崎県日向地方の高千穂(鹿児島説もあるが)だと解釈されている。そしてニニギの子孫である神武天皇は日向の美々津から船出して東征し、近畿大和地方に朝廷を開いた、というのが日本建国ストーリーだ。すなわちルーツは宮崎だと。弥生時代初期に水稲稲作が伝わり、鉄器が伝わり、大陸文明伝来地、交流の窓口となり、多くの渡来人が移り住み、弥生のムラ•クニが出現した北部九州ではなく、縄文文化と生活形態を色濃く残す隼人の地、日向がルーツであるという。ここでも筑紫の奴国、伊都国や邪馬台国のあった場所が丁寧に除かれている。記紀編纂時点でまだヤマト王権に完全に服属していない隼人の地、さらにはまだ律令制下の日向国が成立していない時点であることを考えると、なぜこうした建国のルーツを語ったのか疑問が湧いてくる。

 

さらに記紀神話は次のようにも語る。イザナキが黄泉の国から戻り、穢れを落とすために禊をした。その時アマテラス・ツキヨミ。スサノオの三貴子が生まれた。同時に綿津見三神、住吉三神も生まれた。それが「筑紫の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)のアワギガハラ」だという。したがってこれも宮崎県日向地方がその地である、と。ちなみに綿津見三神、住吉三神とも筑紫の那の津を拠点とした安曇族、住吉族の祖霊神である。 この神話の編に出てくる「筑紫の日向(ひむか)」がどこなのか?これはやはり北部九州(筑紫)のどこかだと考えるのが合理的だろう。以前のブログで述べたように(筑紫の日向(ひむか)は何処?)、「日向(ひむか、ひなた)」という地名は、太陽に向かう方向を示していて、いたるところに同様の地名がある。また「高千穂」も必ずしも地名ではなく「気高く神々しい山」を指していて、これも神奈備型の山はいたるところにある。「橘」も海に飛び出した鼻/岬であるとすれば、これまたいたるところに見出される。問題は「阿波岐原」と「クシフル岳」だが、ここがどこかはわからない。いろんな説があるが、ここで言いたいのは。必ずしも宮崎県や鹿児島県ではなく、北部九州の福岡県や佐賀県といった地域をも想起させるということだ。おそらく記紀の編者は、倭国の本来のルーツを認識していたと思う。地名に隠れた本当の故地をあえて謎解き風に記述したのかもしれない。

 

記紀には「出雲神話」「日向神話」はあるが「筑紫神話」がないと言われる。この文明の入り口であった筑紫(大陸に近い北部九州)がヤマト王権、皇統の発祥の地・ルーツであるという認識は明示されていないのだ。これもあえて大陸からの人の移入や、文化の移入、わが国における稲作農耕文明の発祥の地という歴史的記憶を想起させる北部九州筑紫への「天孫降臨」ストーリーを避けることにより、中華王朝とは独立の国家「日本」(もともと日本列島に自生した日本)を描き出して見せたのかもしれない。

 

 

追記:

 

記紀によれば、神功皇后は三韓征伐したという。その夫、仲哀天皇は「海の向こうの新羅を攻めよ」という神からのお告げがあった時、「そんな国は見えない」とその存在を疑ったために神罰で死んでしまった、と。この記述によればその頃の(どの頃なのか特定できていない?)天皇は新羅の存在を知らなかった事になっている。その存在を神のお告げで知り、遠征して服属させたとする。このような、いわば「日本版華夷思想」が描かれている。まして中国の皇帝に朝貢したなんてめっそうもないこと。という歴史認識(一説に曰く。女王が魏に遣使したことを記している。ここが唯一日本書紀が中国の史書の記述に言及している部分)が読み取れる。 ちなみに神功皇后の子、応神天皇は三韓征伐から戻って、筑紫の宇美(魏志倭人伝に出てくる「不弥国」といわれている)で生まれたとされている。北部九州縁の天皇だ。筑紫がルーツの住吉系の神社のご祭神は先の住吉三神のほか、神功皇后、応神天皇が祀られる事が多い。北部九州には神功皇后/応神天皇をご祭神とする神社が多い。この「三韓征伐」という勇ましい事績が、歴史上のどの時代の誰の事跡に関連しているのか不明である。一説に、672年の斉明天皇・中大兄皇子の白村江出兵の話が過去に投影されているのでは?と言われている。こちらは新羅を服属させるどころか、唐・新羅連合軍に敗北して逃げ帰っているわけである。また卑弥呼は神功皇后であるとする説を唱える人もいる。しかし、では卑弥呼が朝鮮半島に出兵して新羅を服属させたと言うのだろうか。あるいは神功皇后は魏の明帝に朝貢して「親魏倭王」の印綬を受けたというのだろうか。かなり無理があるように考えるが。

 
 

 日本初の正史である「日本書紀」

天皇の記としての「古事記」
いわゆる「魏志倭人伝」
 
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