このごろ日本は「三度目の奇跡」を起こさねば、という議論が盛んだ。評論家や日経新聞あたりがわいわい言ってるのが引き金になっているようだ。「明治維新」と「戦後の復興」につぐ「三度目の奇跡」という訳だ。
欧米列強に対抗して,アジアのなかでいち早く近代化を成し遂げ、アジア初の国民国家を樹立し、さらに、戦争で壊滅的破壊を経験したにもかかわらず、世界第2位の経済大国に成長した日本。この時レファレンスモデルは「欧米」諸国である。アジアの国なのに欧米のように近代化した「例外としての日本」という訳だ。これが「奇跡」と呼ぶ所以である。
そこで今、なぜ「三度目の奇跡」が必要という議論になっているか。それは「少子高齢化」「経済の低成長」「国家財政の大赤字」という三つ子の不安材料を抱え、国家の衰退に直面しているからだ。遅れているはずのアジアの国々、すなわち韓国や台湾や中国に追い上げられ、追いこされる事態に直面しているからだ。さらにはインドやASEAN諸国も急速に経済成長して来ている。
とりわけ中国の経済、政治、外交、軍事面で急速な成長が大きなな脅威と感じ始めている。このように常に外部に「脅威」があり、それが臨界点に達した時に「奇跡」を起こして来た、という日本の歴史から来くる期待がある。やや「神風」みたいな「奇跡」を待望する空気もあるようだ。
これからはアメリカじゃない。中国だ、とか、いやアメリカと中国の板挟みだとか、歴史上想定出来なかった事態に「第三の奇跡」を求める志向となっているのだろう。確かに,この日本を取り巻く事態は明治維新/戦後復興のときと違って、追いかけるモデルがない事態になっているのは事実だ。
もっとも日本は歴史上、既に「三度」の奇跡を経験している。上述の二つの「奇跡」以前に1450年ほど時間を戻してほしい。このときの脅威は隣国である中国、当時の大唐帝国だ。そして一度目の日本の「奇跡」は645年に始まる「大化の改新」だ。これは我々が歴史で習った中大兄皇子と藤原鎌足が蘇我入鹿を誅殺し,時の権力者蘇我氏を滅ぼした,いわば宮廷クーデタそのものを言うのではない。
最近の歴史認識では、「大化の改新」は、この宮廷クーデター(巳支の変)に始まる天皇中心の政治体制,すなわち律令体制、公地公民制、班田収受法等による経済改革などの一連の改革を言うとされている。この改革には実は「大化の改新の詔」から30年以上の時間を要し、壬申の乱以降の天武天皇、その妃の持統天皇の時代になってようやく大王の「倭国」(いわば連合王国)から天皇中心の国家「日本」(中央集権国家)が実現している。
しかし、何故このような「改革」、いや「革命」が必要だったのか。この動きを強いたのは,当時の「倭国」を取り巻く東アジア情勢に他ならない。すなわち朝鮮半島白村江での唐/新羅連合軍との戦いでの倭国/百済の決定的敗北、大陸からの撤退である。これは単に朝鮮半島での「倭国」の権益を失う、という事態に留まらず,引き続き唐が日本本土に侵攻してくる、というホラーストーリーを想定させるに十分な事態であった。
この事態に対応する為に、天智天皇以来、急速に強力な国家体制を整備する必要に迫られた。すなわち富国強兵(防衛線の建設と徴兵制)、殖産興業(公地公民制、土地人民の国有化、生産性向上)、政治の近代化(天皇中心の律令体制)、官僚制の確立(ヤクサノ姓)、あげくには近江京への遷都を進めざるを得なかった。これが第一回目の「奇跡」である。
ちなみに、ここまで聞いて、この時のこの事態と改革のプロセスは実に明治維新に似ていると思われるだろう。その通り,明治維新が「王政復古」と呼ばれる理由は、この天皇中心の国家体制の創建をモデルとし、この時代の国家体制を戻そう(少なくとも武家の棟梁将軍中心から天皇中心への政権交代、すなわちアンシャンレジュームという意味において)とした事による。明治期に如何に天皇制が日本の国家の基礎であるかを認識させる営みが数々行われたのはこの為である。この話はまた別途。
話を戻す。日本という国は,その地政学的な位置から,常に近隣の大国の文化的、経済的便益を享受しつつも、その脅威に対抗してゆかざるを得ない宿命であった。もっとも隣の朝鮮半島ほどではないにしても。最初は,大唐帝国であり、次は大航海時代を経て東洋に進出して来た西欧列強諸国。そして帝国主義戦争で勝利したアメリカである。
もちろん長い歴史の中で,周辺諸国に日本は忘れられた時期があったり、一時的に侵攻されたり(元寇)、自ら西欧諸国の進出の脅威を「鎖国」という形で防御したりした時代もあるが、ユーラシア大陸の東辺部にある島国として常に大陸の影響を肌身に感じつつ国家経営して来た。
こうした点ではユーラシア大陸の西の端の島国であるイギリス(正確にはイングランド、スコットランド、アイルランド、ウエールズ等の国々と言うべきだが)と同じである事が面白い。イギリスの場合は,実際に大陸からの侵攻を受けている。ゲルマン人やバイキングによる侵攻、ローマ帝国の属領化、フランスのノルマンコンケスト。スペインによる圧迫、海上封鎖等。そうした厳しい「国際環境」が遂にはイギリスに絶対王政を確立させ、七つの海に進出させるエネルギーとなるのだが,その話もまた別途。
このようにマクロ的に歴史を振り返ってみても日本を取り巻く環境は激的に変化したと言わざるを得ない。世界が狭かった時代には隣の大陸の大国、文明を気にしてれば良かった。そのうちユーラシア大陸の反対側からやって来た近代文明と緊張関係が生まれ、さらには広大な太平洋に阻まれているが故に、「隣」とは意識しなかった新大陸からやって来た文明と戦うはめに。そしてふと気付くと今度は旧文明となり脅威でなくなっていたはずであった隣の中国が再び歴史の表舞台に躍り出て脅威に。日本は東西両面の強大国の狭間に存在する国家になってしまった。
それだけではない。「World is flat.」世界は歴史上経験した事がない新たなフェーズに移りつつある。 経済のボーダレス化が国家の有り様を変えつつある。近代の象徴である国民国家を枠を超えるグローバルなステージにどのような立ち位置を確立するのか、これは日本だけではなく、それぞれの国家が直面する挑戦的な課題である。
こうしたなか、日本は、アメリカにつくか、中国につくか,なんていう亡国的な二者択一でもなく、両大国の橋渡しをするクニになる、なんて誰も期待してない役割を勝手に自任するのでもなく、永世中立国になる、なんて第2の「鎖国」を夢想するのでもなく、国境のないグローバルな世界の中で独自の役割を果たす国になることを目指さねばならなくなる。その時、その中心は多分日本という「国家」ではなく、国家の枠組みを越えて世界で活動する日本人という「人」となるのかもしれない。またそのような人材を多く輩出する「国家」日本になる。それこそが「第四の奇跡」だ。
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欧米列強に対抗して,アジアのなかでいち早く近代化を成し遂げ、アジア初の国民国家を樹立し、さらに、戦争で壊滅的破壊を経験したにもかかわらず、世界第2位の経済大国に成長した日本。この時レファレンスモデルは「欧米」諸国である。アジアの国なのに欧米のように近代化した「例外としての日本」という訳だ。これが「奇跡」と呼ぶ所以である。
そこで今、なぜ「三度目の奇跡」が必要という議論になっているか。それは「少子高齢化」「経済の低成長」「国家財政の大赤字」という三つ子の不安材料を抱え、国家の衰退に直面しているからだ。遅れているはずのアジアの国々、すなわち韓国や台湾や中国に追い上げられ、追いこされる事態に直面しているからだ。さらにはインドやASEAN諸国も急速に経済成長して来ている。
とりわけ中国の経済、政治、外交、軍事面で急速な成長が大きなな脅威と感じ始めている。このように常に外部に「脅威」があり、それが臨界点に達した時に「奇跡」を起こして来た、という日本の歴史から来くる期待がある。やや「神風」みたいな「奇跡」を待望する空気もあるようだ。
これからはアメリカじゃない。中国だ、とか、いやアメリカと中国の板挟みだとか、歴史上想定出来なかった事態に「第三の奇跡」を求める志向となっているのだろう。確かに,この日本を取り巻く事態は明治維新/戦後復興のときと違って、追いかけるモデルがない事態になっているのは事実だ。
もっとも日本は歴史上、既に「三度」の奇跡を経験している。上述の二つの「奇跡」以前に1450年ほど時間を戻してほしい。このときの脅威は隣国である中国、当時の大唐帝国だ。そして一度目の日本の「奇跡」は645年に始まる「大化の改新」だ。これは我々が歴史で習った中大兄皇子と藤原鎌足が蘇我入鹿を誅殺し,時の権力者蘇我氏を滅ぼした,いわば宮廷クーデタそのものを言うのではない。
最近の歴史認識では、「大化の改新」は、この宮廷クーデター(巳支の変)に始まる天皇中心の政治体制,すなわち律令体制、公地公民制、班田収受法等による経済改革などの一連の改革を言うとされている。この改革には実は「大化の改新の詔」から30年以上の時間を要し、壬申の乱以降の天武天皇、その妃の持統天皇の時代になってようやく大王の「倭国」(いわば連合王国)から天皇中心の国家「日本」(中央集権国家)が実現している。
しかし、何故このような「改革」、いや「革命」が必要だったのか。この動きを強いたのは,当時の「倭国」を取り巻く東アジア情勢に他ならない。すなわち朝鮮半島白村江での唐/新羅連合軍との戦いでの倭国/百済の決定的敗北、大陸からの撤退である。これは単に朝鮮半島での「倭国」の権益を失う、という事態に留まらず,引き続き唐が日本本土に侵攻してくる、というホラーストーリーを想定させるに十分な事態であった。
この事態に対応する為に、天智天皇以来、急速に強力な国家体制を整備する必要に迫られた。すなわち富国強兵(防衛線の建設と徴兵制)、殖産興業(公地公民制、土地人民の国有化、生産性向上)、政治の近代化(天皇中心の律令体制)、官僚制の確立(ヤクサノ姓)、あげくには近江京への遷都を進めざるを得なかった。これが第一回目の「奇跡」である。
ちなみに、ここまで聞いて、この時のこの事態と改革のプロセスは実に明治維新に似ていると思われるだろう。その通り,明治維新が「王政復古」と呼ばれる理由は、この天皇中心の国家体制の創建をモデルとし、この時代の国家体制を戻そう(少なくとも武家の棟梁将軍中心から天皇中心への政権交代、すなわちアンシャンレジュームという意味において)とした事による。明治期に如何に天皇制が日本の国家の基礎であるかを認識させる営みが数々行われたのはこの為である。この話はまた別途。
話を戻す。日本という国は,その地政学的な位置から,常に近隣の大国の文化的、経済的便益を享受しつつも、その脅威に対抗してゆかざるを得ない宿命であった。もっとも隣の朝鮮半島ほどではないにしても。最初は,大唐帝国であり、次は大航海時代を経て東洋に進出して来た西欧列強諸国。そして帝国主義戦争で勝利したアメリカである。
もちろん長い歴史の中で,周辺諸国に日本は忘れられた時期があったり、一時的に侵攻されたり(元寇)、自ら西欧諸国の進出の脅威を「鎖国」という形で防御したりした時代もあるが、ユーラシア大陸の東辺部にある島国として常に大陸の影響を肌身に感じつつ国家経営して来た。
こうした点ではユーラシア大陸の西の端の島国であるイギリス(正確にはイングランド、スコットランド、アイルランド、ウエールズ等の国々と言うべきだが)と同じである事が面白い。イギリスの場合は,実際に大陸からの侵攻を受けている。ゲルマン人やバイキングによる侵攻、ローマ帝国の属領化、フランスのノルマンコンケスト。スペインによる圧迫、海上封鎖等。そうした厳しい「国際環境」が遂にはイギリスに絶対王政を確立させ、七つの海に進出させるエネルギーとなるのだが,その話もまた別途。
このようにマクロ的に歴史を振り返ってみても日本を取り巻く環境は激的に変化したと言わざるを得ない。世界が狭かった時代には隣の大陸の大国、文明を気にしてれば良かった。そのうちユーラシア大陸の反対側からやって来た近代文明と緊張関係が生まれ、さらには広大な太平洋に阻まれているが故に、「隣」とは意識しなかった新大陸からやって来た文明と戦うはめに。そしてふと気付くと今度は旧文明となり脅威でなくなっていたはずであった隣の中国が再び歴史の表舞台に躍り出て脅威に。日本は東西両面の強大国の狭間に存在する国家になってしまった。
それだけではない。「World is flat.」世界は歴史上経験した事がない新たなフェーズに移りつつある。 経済のボーダレス化が国家の有り様を変えつつある。近代の象徴である国民国家を枠を超えるグローバルなステージにどのような立ち位置を確立するのか、これは日本だけではなく、それぞれの国家が直面する挑戦的な課題である。
こうしたなか、日本は、アメリカにつくか、中国につくか,なんていう亡国的な二者択一でもなく、両大国の橋渡しをするクニになる、なんて誰も期待してない役割を勝手に自任するのでもなく、永世中立国になる、なんて第2の「鎖国」を夢想するのでもなく、国境のないグローバルな世界の中で独自の役割を果たす国になることを目指さねばならなくなる。その時、その中心は多分日本という「国家」ではなく、国家の枠組みを越えて世界で活動する日本人という「人」となるのかもしれない。またそのような人材を多く輩出する「国家」日本になる。それこそが「第四の奇跡」だ。
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