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時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

摂州平野郷 万部おねり

2011年05月05日 | なにわ大阪散策
 大阪市平野区。天王寺からJR大和路線各駅で二駅目の平野は、今は大阪の街に飲み込まれてしまっているが、戦国時代に形成された摂津の自治都市、環濠集落平野郷であった。関西にはこうした環濠集落がいくつか今もその痕跡を残している。富田林、大和今井町、郡山の稗田、番匠集落、山辺の道の萱生、竹内集落、等々。平野は大阪の都市化の波に洗われてその痕跡をかなり消し去られているが、それでも杭全神社の付近に掘割の趾が残り、町割り、古い商家にかすかにその面影を留めている。

 摂津の国平野は平安時代初期には坂上田村麻呂の子の広野麻呂が朝廷からその武勲をたたえられて下された荘園、杭全荘、のちに広野荘がその起源とされている。平野(ひらの)の地名はこの広野(ひろの)から転じたものだとか。ちなみに町の北側には杭全神社が鎮座増しましている。杭全と書いて「くまた」と読むのだそうだ。我が家の近くを走る市営バスの行き先が「杭全」と表示されているが、これをどう読むのかずーっと分からなかった。調べようともしてなかったという方が正しいが。「くいぜん」?「くいまた」?などと... これが読めるようになったのはつい最近のこと。ということは私もかなり大阪人になって来たぞ。

 織田信長に抵抗して形成された自治都市、環濠集落、平野郷が最も栄えたのは戦国の世がようやく収まりつつあった豊臣時代、さらには徳川時代初期。いくつかの街道が交差する交通の要衝で,町には13の木戸があったという。南蛮貿易では堺と並び、末次氏などの豪商を輩出。木綿の生産などで豊かな富の集積地となった。秀吉が大坂の町を建設する時に、大坂城と四天王寺の間の上町台地上に平野郷からその一部が移住して平野町を形成したと言われている。いまは寺町となっている上町筋と 谷町筋の間が平野町だったらしい。


 平野の環濠の北西に大念仏寺という寺がある。融通念仏宗総本山で、今年が開宗900年になるという古刹だ。ここは年一度5月1~5日に行われる、「万部おねり」で有名な寺だ。そのハイライトは、阿弥陀如来の下でこの世で苦しむ衆生を救うとされる25の菩薩が阿弥陀如来のおわします本堂へ集合する「おねり」。25の菩薩は専門の僧侶がそれぞれの菩薩役となるなかなか豪華なおねりだ。

 稚児行列から献花献茶、踊り、講、僧侶、総代の行列が二十五菩薩のおねりに先立ち、2時間を超えるパレードだ。近郷近在から集まった善男善女がその「おねり」を取り囲み、あたりは南無阿弥陀仏の念仏に包まれる。観光イベントとしてはあまり知られていない分だけ、まさに日々の生活に寄り添った宗教行事の雰囲気が漂っている。
 大阪のような大都会の片隅に、このような祈りの生活が息づいていることに時空を超えた関西という地域の奥深さを感じる。そして二十五菩薩の神々しい黄金のマスクが阿弥陀仏の功徳をもたらしてくれるようである。

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花の大阪城  太閤さんの夢のあと?

2011年04月12日 | なにわ大阪散策
 今年も大阪城公園に桜の季節がやって来た。

 東日本大震災からちょうど一ヶ月。未だに多くの人々が行方不明。復興も緒に就いたばかり。福島は原発事故の収束見通しも立たず,今日はとうとうチェルノブイリ事故に並ぶレベル7になってしまった。まだまだ前途多難の日本だが春は確実にやってくる。

 会社から近い大阪城公園は、いくぶんお花見自粛ムードだが、それでも花見を楽しむ人々であふれた。桜は今年も精一杯咲いた。石垣とお堀と天守閣を彩る桜の樹々。典型的な日本の春のシチュエーションだ。東京なら皇居、千鳥ヶ淵と桜。お城と桜は欠かせ得ない舞台装置。

 満開をやや過ぎた今日は、お堀に花筏があちこちに漂っている。そういえば樹々の根元にも桜吹雪が... 風情たっぷりに散りゆく桜。これもまたよい。

 ところで今見えているこの大阪城、太閤さんの夢のあと。なにわ大阪のシンボル的存在だが、現存の縄張りは1615年大坂冬の陣、その翌年の夏の陣の後に徳川によって全く新たに構築された徳川の大坂城である事を知る人は意外に少ない。大阪のシンボルにケチを付けるつもりはないが、今の大阪城は豊臣秀吉の大阪城ではないのだ。

 冬の陣の後に外堀さらには内堀までは埋め立てられ、その後の夏の陣で天守閣は焼失し、本丸や西の丸などの城内の構造物は徹底的に破却され、埋め戻されている。その跡に石垣も全く新たに組み直し、壮麗な天守閣を建設した。要するに豊臣色を完膚なきまでに抹消して新たに建てられたのが今の大阪城だ。偉容を誇る巨大な城は、徳川の時代をなにわに誇示するかのように再建されたものだ。

 豊臣大坂城はいまや完全に地下に封じ込められて,日の目を見る事は無くなってしまった。豊臣時代の石垣はわずかに北西の角、ドーンセンターの辺りに見えるくらい。

 いまは大阪市民の憩いの場、観光名所となり、内外の観光客で賑わう。...というものの,震災以降、中国、韓国の観光客がぱったり来なくなった。観光バス用の駐車場は閑古鳥鳴く。太閤さんも徳川さんも,あくびしてはるワ。

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アクセス:
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大阪 上町台地の夕陽

2011年02月08日 | なにわ大阪散策
 
 大阪の上町台地は縄文時代には海に突き出た岬のような高台であった、河内地方は海であった。弥生後期頃から次第に河内湾は干上がり始めて河内潟になり遂には陸地になってしまう。この上町台地は文字通り台地となり聖徳太子が四天王寺を開いたり、仁徳大王の高津宮があったのでは、と推測されたり、皇極大王が難波宮を建設し、遷都したが,すぐに飛鳥古京にもどり、孝徳大王が置いてきぼりになって東の二上山の向うの飛鳥を思いながら崩御したり...

 その後の歴史のなかで、中世には一向宗徒がこの台地の北の先端に石山本願寺を開き、その跡に秀吉が大坂城を築く。難波津は古くから瀬戸内海を通じて北部九州、大陸とも繋がる重要な港であった。飛鳥からは丹比道、大津道、横大路、竹内街道で結ばれ、古代倭国にとっては、大陸からの重要な文化の受容口であった。太閤秀吉は大坂城を築いてからは上町台地上に平野郷から人を移動させて、街を造り、寺を集めて寺町を築いた。

 日本の歴史のなかで、「西」は大陸の進んだ文化や富がやってくる方向であり、仏教伝来以降は西方浄土の方向であり,常にあこがれの方角であった。そして、西に沈む太陽、夕陽の美しさが人々の信仰の対象になったり、心象風景になったりした。それはまた相対的には自らは日が昇る東の海に国を為す民である、というアイデンティティーの表れでもあった。

 いまでこそ、上町台地の西岸は大阪の市街地として発展し、西側の展望は利かなくなっているが、いまでも夕陽ケ丘という地名が残り、寺町には四天王寺七坂健在だ。ここ上町台地から眺める夕陽は美しく,古代人ならずともなにか心を奪われる風景である。

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(西に沈む夕陽の光芒が美しい)



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(上空に雲が厚くたれ込め夕陽が覗く余地がないとこのようなグラデュエーションの空となる)


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(南を向くと空と雲の色が全く異なる。通天閣から和泉方面を望む)

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(夕陽が西に沈むころ。西方浄土とはこのような夕陽輝ける所なのか。東京と異なり意外に夕陽が赤い。大阪の方が空気がましなのだろう)


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(東を向くと、遠く二上山と金剛山を望むことができる。河内平野の上空を覆う雲間からの光芒。あの山の向うは大和盆地、飛鳥だ。孝徳大王の望郷の念を思う)

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大阪・上町筋 昔の町家景観の痕跡を探る

2010年07月20日 | なにわ大阪散策
 江戸時代、元禄年間の古地図により大坂の街をマクロ的に俯瞰すると、上町台地の北に位置する大坂城、これを中心とする武家屋敷が立ち並ぶ城下町部分と、その西に広がる、土佐堀川、東西横堀川、長堀川に囲まれた大商業地である船場、その南の島之内。さらに商業地が拡張した西の西船場、北の堂島、天満という商業都市部分がある。さらには天満や平野町、四天王寺辺りの寺社町が大坂城のの南北を守るように形成されている。

 上町筋(うえまちすじ)は今も昔も上町台地を南北に走る幹線路で、ちょうど東側城下町部分の武家屋敷地区と、西側商業地区部分、本町の町家地区とを隔てる道路になっている。さらにこの道を南に下ると西側には谷町筋周辺の寺町地区、南の四天王寺終点に至る。

 この上町筋は私の通勤経路でもある。バスに乗って町並みを眺めていると、ビルやマンションの合間に点々と古い切妻の町家が生き残っているのに気付く。特に道の西側に顕著であるのは、先程述べた江戸期の街割りの残映であろうか。あるものは見るも無惨に改造され、あるものは取り壊されてその残影のみを残し、あるものは見事に補修復元され。しかし都市近代化の波にのまれ、数の上からも間もなく全てが消えてなくなるであろうことを予見させる状況だ。風前の灯という奴だ。

 都市の景観は、近代化だけでなく、戦争や災害、バブル期の地上げに伴い大きく変貌して来た。江戸/明治期の町並みがドンドンなくなってゆく。東京日本橋や銀座辺りはもはやその痕跡すら見つけるのは困難になっている。間口の狭いペンシルビルが乱立している姿に往時の面影を求めるのみである。しかし、ここ大阪上町筋は、よく見るとこうしたビルの谷間に取り残されたように町家が存在し、やがてこれらもマンションに建替え間近であっても、まだ今は残っているではないか。そしてこの点と点を繋いでゆくと、線となり、繁栄の大坂、上町筋の町並み景観が蘇ってくるではないか。

 こうした時空を超えた空想は楽しい。感動だ。まるでCG再現のような江戸期から昭和初期の天下の台所、大坂の上町筋の景観が蘇って来る。大阪は時代の痕跡を今にとどめながら生きている街だ。京都のようにそれを売り物にしていない分だけ、妙にリアリティーと想像とが時空を超えて交錯している街だ。

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(町家は間口が狭く奥行きの深い、いわゆる「うなぎの寝床」だ。いかにも町家壊して建てましたという風情の、ひょろながマンションビルの奥行きを見るとよくわかる。現存する町家は切妻造りでどこも平入(軒下に玄関を設けている)となっている。ビルの谷間に点々と残された町家を追っていくと町並みの線が脳内で視覚的つながり、昔の上町筋の町並みを想像することが出来る。)



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(無惨にも切り取られた町家。その跡は現在駐車場に。しかし、切り取られた部分の後ろをご覧あれ。昔の町家の奥がどのような構造であったのか、その屋根のラインがシルエットで教えてくれる。まさにA瀬川G平先生のトマソン芸術だ。)


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(このように美しく修復されて使われている町家もある。しかもちゃんと両側に立派なウダツが上がっている。クーラー室外機が惜しいが。この建物の所有者と住人の方々の文化センスをうらやましく思う。建築や町並みへの愛着と景観保存への深い理解を感じる。同時にこの建物をこのように維持するご苦労を思う。)


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(一つおきに古い外観を残した町家と改造された建物と。時代に応じて幾度かの外観変更があったのだろう。外装の看板建築を取り除けば往年の町家外観がまだ残っているのではないかと思う。しかし今後、この連続した家並が復活することはないのだろう。残念だが... 子供の頃読んだ「小さな家」という童話を思い出す。アメリカの童話作家が書いたニューヨークの街の発展の中に取り残された小さな一軒家の話だった。)


難波宮から望む二上山

2010年06月08日 | なにわ大阪散策
そろそろ梅雨入りか。今年は6月に入ってもさわやかな天気が続き入梅の気配がなかったが、さすがにそろそろか。
窓から見える二上山、金剛山方面に低い雲が垂れ込めている。

ここの所、東京と大阪の行き来が激しく、時空を超えて大阪と難波、奈良と飛鳥を行き来出来ないのが寂しい。
我が時空旅の出発点、近鉄上本町も阿倍野橋も、とんとご無沙汰だ。

今日も窓から遥か河内平野の彼方に二上山が見える。気になるのはその二上山の手前に(八尾のあたりだろうか)高層マンションが建設中で、やがて二上山の美しい姿を遮る形で完成に向けて着々工事が進んでいることだ。かつて縄文時代後期にはこの上町台地に抱えられるように水をたたえた河内湖であったのが、やがて弥生時代頃から八岐大蛇のような大和川の合間の湿地帯となり、いまや大阪のベッドタウンとして、日本のモノ造りのシンボル、東大阪の中小企業の街として、殷賑を極める地域になったのだから景観の変貌も致し方ないのかもしれないが。

窓から景色を眺めながら、古代の河内の姿を想像力たくましく思い描くしかない。

生駒、葛城、金剛山系の谷間に沿って飛鳥故宮、藤原宮、平城京と河内、難波津を結ぶ古代官道、横大路、竹内街道が走っている。今も第二阪奈道路が走るその横にそびえる二上山。悲劇の皇子、大津皇子の墓がある所だ。ヤマト側から見ても大阪側から見ても、そのツインピークスの山容はまさに関西のランドマークだ。

万葉集でうたわれる二上山はヤマトの地から眺めた、日の没する西に位置する山である。二上山は、弥生の神々にとっては三輪山に日が昇り、二上山に日が没する、東西を軸とした世の終末を表し、仏教伝来後のヤマト世界では西方浄土へのあこがれを表す山だ。入江泰吉氏の「二上山残映」は、まさに夕陽に映える山容を写し取ったものだ。

しかし、こうして難波から東に向って眺望する二上山は、河内平野の向うにそびえる日が昇る山だ。大陸から渡って来た人々、あるいは遣唐使として日本に戻って来た人々にとっては、ここ難波津に降り立ち、はるかシルクロードの東の終点を間近にして、これから向う都を想い一息入れながら眺めた山なのだ。

あるいは、飛鳥の地から難波に遷都し、即位した孝徳大王。斉明大王と中大兄王はその後孝徳大王を難波に置き去りにして飛鳥へ戻ってしまう。この孝徳大王は失意のうちに難波宮から二上山をあおぎながら、遥か山の向うの飛鳥の故宮を恨めしく思ったことだろう。

歴史の風景も異なった位置から眺めてみると、また別の感慨を味わうことが出来る。


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                                   (難波から二上山を望む)

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                                   (夕暮れの難波宮跡)
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                                   (上町台地の光芒)