院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

漁業者の世襲と保護

2013-04-16 01:46:12 | 生活
 国家免許には業務独占というのと名称独占というのがある。業務独占の免許には、その免許保持者しか行ってはいけない業務がある。例えば採血は、医師と看護師と臨床検査技師にしか許されていない。レントゲン技師にも理学療法士にも採血を行う権限はない。

 一方、名称独占で有名な資格に保育士がある。保育士は子どもを集めて世話をする仕事である。でも、近所のおばあさんが勝手に子どもを集めて、有料で保育をすることは許されている。ただし、おばあさんは保育士を名乗って仕事をしてはならない。これが名称独占ということである。

 その海域で漁業をしてよいのは漁協の組合員に限られる。それ以外の者が同海域で漁業をすると密漁になる。だから、漁協は組合員の業務独占を保証している。漁業は農業ほど高齢化していない。漁師の若い子弟が次々と漁業に参入してくる。

 新しい漁協のメンバーは既存のメンバーによって投票で選ばれる。でも、選ばれるのは漁協メンバーの子弟だけで、よそ者が選ばれることはない。要するに、漁業は業務独占の世襲である。農業のほうには、こうした特典はない。

 これは、おいしい話ではないか?なんの国家試験を受けなくても、漁業の業務独占が世襲によって決まるのである。

 「就農」を考える人がいる。今後、「就漁」の希望者が出てきたら、既存の漁業者がどんな反応をするか、いまから興味を寄せているところである。

医者の本代

2013-04-15 04:12:17 | 読書
 自分で言うのもナンだが、私は若いころとてもよく勉強した。あれもこれもと講義を聴き本を読み漁った。

 最盛期には月に10万円以上も本代に費やした。そのお金はすべて小遣いから出さねばならず、家計に与える影響が少なくなかった。

 本は貯まりに貯まって、家じゅう本だらけになった。それらの本に愛着があって捨てがたかった私は、一戸建てを新築したときに、100万円かけて移動式重層書架を買って書庫を作った。そこにある蔵書は、新品で買って何百万円もかかったものだが、今ではすべて売っても古本として2,3万円にしかならないだろう。

 それはともかく、私の恩師のひとりの大学教員は、「本代は大学教員の必要経費である」と、担当の税務署と交渉して、とうとう本代を給与から控除させた。

 そのころ私は名古屋市役所に勤めており、私の施設所長という立場に月6万円の書籍費が予算としてついていた。その予算はすべて使った。買った本は施設に置かなければならないのだが、私も私の前任の医者も、本のサックだけ施設に置いておいて書架に存在しているように見せかけ、中味は持って帰った。

 このように本代には大変苦労した私だが、教員でもない勤務医では本代を税務署に控除させるのは気が引けた。

 このたび開業してびっくりしたのは、開業医は書籍費がかなり収入から控除されるということだ。開業医よりも勤務医のほうが若く、余計に勉強もする。これでは話が逆ではないか。医学は日々進歩している。勤務医の本代も控除されるべきだと強く主張したい。

音楽産業の隆盛・JASRACの力

2013-04-14 00:01:42 | 音楽
 昨年はわが国の音楽産業の収入が世界一になったそうだ。報道ではCDの売り上げが伸びたからだと説明されていたが、実態は違うだろう。音楽をインターネットからダウンロードする人が飛躍的に増えたのに、いまさらCDの需要が伸びるはずがない。

 音楽産業の収入が世界一になったのは、JASRAC(日本音楽著作権協会)が利権の網をインターネットにかけることに成功したからに他ならない。

 音楽という著作物を利用して商売をしている人に、著作権料を請求するのは当然である。音楽で商売をしている人とは、大は放送局や演奏会、小はカラオケボックスまである。だいぶ前に零細カラオケ業者が著作権料を払わないことがあった。なんとJASRACはそれを告発し、検察が零細カラオケ業者に店に立ち入ってカラオケの機械を使用禁止にした。

 客に酒食を出すことは音楽とは関係がないので、検察はテーブルや椅子には手を付けず、カラオケの機械だけに漁網のような網をかけて封印した。使用禁止の命令を出すだけでなく、実際に網をかけてテレビで報道させたのは、見せしめにしたかったからだ。検察を誘導したのはJASRACである。このようにしてJASRACは、多い時には年に3000件もの「著作権違反」を摘発した。

 問題なのはJASRACのシェアが99%で、ほとんど独占企業であることだ。独占だから著作権料を自由に決めることができる。そして、案の定、著作権料が法外に高い。カラオケでまれに歌われるような曲を一曲作っただけで、その曲の作曲家と作詞家は一生食べていける。

 だから、作曲家も作詞家もJASRACに文句を言わない。でも、JASRACの経理状態を詳細に調べれば、作曲家、作詞家の取り分とは別にJASRACが相当にピンハネしている可能性がある。こうした活動に法的な根拠を与え、理論武装しているのはJASRACに天下った文科省官僚たちである。

 JASRACの強欲ぶりはディズニーのミッキーマウス商法と似ている。ディズニーのキャラクターは、とっくに著作権が切れた「古典」であるにもかかわらず、ロビー活動で「著作権延長法」をむりやり成立させて、未だに著作権を主張している。

 そればかりか、ディズニー社はキャラクターに手を加えることを許していない。つまり、著作権料を支払っても、無断でミッキーに帽子をかぶせるなどの改変をしてはいけないのだ。こうしたディズニー社の姿勢は、アメリカで多くの批判を浴びている。

 わが国でのJASRAC批判はまだ一部にとどまり、大多数の国民が知らないことだから、ささやかながら私がここで批判しておく。著作権保護に名を借りて、「文化」で私腹を肥やすことは許されるはずがない。

人品骨柄

2013-04-13 00:17:14 | 生活
 2012-09-26 のこの欄で「人は見かけによる」と述べた。金髪入れ墨の男は93%はロクでもない奴である。茶髪ピアスの男も程度は軽いが同類である。茶髪ピアスには1時間で変身することができる。逆に1時間で茶髪ピアスから普通の姿に戻ることもできる。

 俗に「人品骨柄」という。こればかりは1時間で変身することはできない。人品骨柄を磨くには何十年とかかる。

 昔の旅籠の女将は、客に対して「いらっしゃいませ」と畳に額を擦り付けて、そこから顔を上げるまでの間に客の人品骨柄を見抜いた。見る人が見れば人品骨柄は一発で分かってしまうものである。

 どこかの国の経済産業大臣の人品骨柄はどうだろうか?演説姿では分かりにくいが、普通の会話をすると一発で分かってしまう。今後、馬脚をあらわさないように願っている。

豊橋市のレジ袋有料化を嗤う

2013-04-12 03:01:50 | 環境
 数年前、レジ袋を有料化する運動が行われたことがあった。レジ袋は石油を使って作られるから、CO2 削減や環境保護のためにレジ袋を使用しないようにしようという運動だった。だからマイバッグをもって買い物に行く人が増えた。

 その後、レジ袋は石油からいろんなものを作ったカスから作られると知られるようになった。それまでは捨てられていた石油のカスを、捨てずに再利用して作られたのがレジ袋で、レジ袋はかえってエコであることが分かった。こうしてレジ袋排斥運動は沙汰やみになった。

 レジ袋がエコであることを知らなかったのかと、環境省に詰め寄った人たちがいた。環境省は答えた。レジ袋を排斥しても環境改善には何の効果もないことは分かっていた、しかし環境保護の精神は大事にしたかったから、あえて何も言わなかった、だと。

 以上のことは、何年か前にこの欄に書いた。

 今月から豊橋市がレジ袋有料化を奨励し始めた。すべての店舗ではないが、スーパーなどが1~5円のレジ袋代を取るようになった。さっそくマイバッグを持つ人が出てきた。

 レジ袋がかえってエコであることは、すでに分かっている。それなのに、なぜ豊橋市はまたぞろレジ袋排斥運動を始めたのだろうか?

 豊橋市は530(ゴミゼロ)運動を日本で最初に始めた自治体で、そのことを誇りに思っている。だから、今度も率先してレジ袋を排斥し、もっとゴミを減らしましょうというのだ。

 この論理が理解できる人は、どれだけいるだろうか?レジ袋を排斥すると、どうしてゴミが減るのだろうか?だれか理を尽くして説明してほしい。これは論理の飛躍というより、ただの無茶苦茶である。レジ袋はゴミ袋として便利に使ってきたではないか。レジ袋をゴミ袋として使わせないようにすれば、ゴミを減らさざるをえなくなるとでも言うのだろうか?こんなアホなこと、市役所の誰が考えたのだろうか?

 かつてのレジ袋排斥運動の時でもそうだったが、レジ袋の有料化には別の大きな問題がある。それは、スーパーを不当に儲けさせるということだ。徴収したレジ袋代は、豊橋市に納められるのではなく、スーパーの懐に入る。たった一円の値下げにいつも苦労しているスーパーとしては、こんなにありがたいことはないだろう。

 豊橋市役所の職員には知り合いが何人もいる。みなさん大変賢く、とてもこんなバカなことを考える人はいない。市議会議員が考えたのだろうか?だとしたら、その議員の名前を知りたい。

追記(2013-04-23)
 その後、「豊橋市ごみ減量の推進に関する提言」を読んだ。どうも、レジ袋そのものをゴミと考えているようだ。豊橋市で年間にゴミとして排出されるレジ袋は640トンとある。しかし、母集団すなわちゴミ全体の量を意図的なのかどうか書いていない。だから、ゴミとなるレジ袋がゴミ全体の何%なのか分からない。
 また、640トンを豊橋市の世帯数で割ると、おおよそ7キロになる。一世帯当たりゴミ袋を年間7キロも捨てているだろうか?わざと過大に見積もっている疑いがある。
 さらに640トンの内訳はレジ袋4900万枚と書いてある。レジ袋一枚当たり13グラムになる計算だ。この「提言」の記述がいかにいい加減かが分かる。

追記(2014-04-04)
いま参照できる「提言」は書きかえられている。まえの「提言」にはカラーの図表はなかった。発生するとされるレジ袋のトン数と枚数も水増し(?)して書かれている。
豊橋市で1年間に発生するレジ袋のゴミが640万トン→830万トンと書き変えられている。
同じく、枚数が4900万枚→6300万枚となっている。
わずか一年間にこれだけ増えたというのだろうか?

北朝鮮の挑発的言動

2013-04-11 00:48:58 | マスコミ
 「北朝鮮が挑発的な言動を繰り返している」と報道されている。だが、北朝鮮の言動は当然過ぎる反応である。なぜなら、米韓の合同訓練が行われていたから。米韓が最新兵器を繰り出して北朝鮮の近くで演習を行うことは、北朝鮮から見れば、ものすごい挑発と映る。

 米韓合同訓練は3月下旬に終わった。でもまだ北朝鮮は挑発的な言動をやめない。それはなぜかと言うと、韓国での米韓陸上訓練がまだ続いているからである。

 4月下旬に陸上訓練がすべて終わったら、北朝鮮は挑発的な言動をやめるだろう。そして、北朝鮮は「わが軍が強硬な態度に出たから米韓はしっぽを巻いて逃げた。北朝鮮は勝利した」と高らかに宣言するだろう。北朝鮮はそう言いたいがために、戦争状態に入ったと発表し、強硬な態度を引き延ばしているのだ。

 意図的なのかマスコミはこのような次第を報道しないから、国民はなぜ北朝鮮がいつまでも挑発的な言動を続けているのか理解できないのである。

 もとっも、相手国の立場なぞ理解しようとしないのが戦争というものであるが。

睡眠時間の個人差

2013-04-10 05:04:26 | 生活
 成人の妥当な睡眠時間は8時間程度とされているけれども、じつは睡眠時間には個人差があって、一概には言えない。

 長時間睡眠者と呼ばれる人は10時間以上の睡眠が必要で、それ以下だと睡眠不足になる。

 一方、短時間睡眠者は中には3時間で済んでしまう人がいる。ナポレオンがそれで、ナポレオンが3時間しか眠らなかったというのは必ずしも誇張ではない。

 短時間睡眠者には社会的活動が非常に高い人がいる。そのような人は現代社会の働きカルチャーの中で、仕事ができる人として抜群のパフォーマンスを見せることができる。

 私は平均的な睡眠者だが、妻は長時間睡眠者である。だから、私が遅くまで起きていたり、朝早くからごそごそやると、妻の怒声が飛んでくることになる。

義務教育の強迫性

2013-04-09 01:38:24 | 教育
 父親の世代の小学校での話だが、昼の弁当の時間に校庭でぶらぶらしている子どもがいたという。なぜかというと、その子の家は貧乏で弁当を持って来られなかった。つまり、昼食を抜いていたのだ。

 そこで私は不思議に思う。教育費のほうが弁当代より、よほど高いはずである。それなのに、学校がその子にとった態度は、教育はするが飯は食わせないということである。飯よりも教育のほうが重要なのだ。

 学校がどんな子どもにも漏れなく教育を授けるという姿勢は、すさまじいほどである。壺井栄の小説『二十四の瞳』を読んで私が驚いたのは、美しい師弟愛に対してなぞではなく、女教師がトランクひとつで単身島にまで押しかけてくる熱意に対してである。熱意というと聞こえがよいが、要するに、しつこさというか、強迫性というか、とにかく異常なまでの執念である。

 学校のこの姿勢は現在でもある。小学生が一人しかいない離島にも教師が一人派遣されて、一対一の授業を行っている。なぜ、ここまで熱心なのだろうか?飯よりも教育を重視するのはなぜだろうか?

 建前としてはすべての子どもには平等に教育を受ける権利があるからである。だが、現実を見ると必ずしも平等ではない。経済的な理由や他の理由で高校や大学に行けない少年少女は山ほどいる。ところが、義務教育だけは徹底的に不平等が排除されているのだ。

 高校大学での教育の成果を、仕事に結び付けている大人は多くはない。作家の曽野綾子さんは、二次方程式は人生で一度も役に立ったことはないと言っている。だから義務教育だけは、どうしても不平等であってはいけないのだろうか?義務教育の不平等は絶対に許さないという国家の強い意志を感じる。

 飯を犠牲にしてまで教育に力を入れてきたから、今の日本の繁栄があるのかもしれない。繁栄には異常な執着が必要なのだろう。だが、異常さを要求してくる社会(それは国際競争に打ち勝とうとする社会だ)、そのような国際競争社会とは、参戦するに値するものなのだろうか?

 小学校教師なる者は、赤紙(辞令)一枚でどこにでも駆けつける熱狂的愛国者のように見える。

アフリカはまだ飢餓状態なのだろうか?(ユニセフ批判)

2013-04-08 05:02:30 | 文化
 30年前、ヨーロッパに初めて行ったとき、イギリスのヒースロー空港から多数のアフリカ行きの便があることに驚いた。

 日本からのアフリカ行き直行便は今でもない。日本人はアフリカのことを知らなさすぎると思う。「暗黒大陸」なぞと呼んで一言で片づけていた。

 最近、テレビでユニセフのCMが放送されていた。痩せ細ったアフリカの子どもの映像が流され、暗にアフリカの子どもに援助をと訴えていた。(いや実はアフリカの映像ではないかもしれない。)

 その時、この映像はいつどこで撮った映像だろうかと怪訝に思った。娘がまだ幼稚園児だったころ、幼稚園で教わったのだろう、「アフリカの子どもは泥水を飲んでいるんだって」と恐怖の表情で私に伝えたのは、もう30年前のことである。30年たった今でも、アフリカには飢餓があるのだろうか?ユニセフの映像は大昔のものではないのか?

 アフリカは広い。54か国もあって10億の人口があるから、十派一からげにアフリカを論じることはできないだろう。だから、ユニセフはただ痩せ細った子どもの映像を流すのではなく、どこの地域がどれくらいの飢餓なのか具体的に知らせる義務がある。

 私は他の多くの日本人と同じくアフリカのことを知らない。それから、世界情勢についても新聞報道でしか知らない。その程度の知識だが、ある程度の想像を巡らすことはできる。

 アフリカに住む人々は、19世紀にヨーロッパ諸国によって分割される前には、ユニセフの映像ほどの飢餓はなかったのではないか?つまり、現地人は少数部族に分かれており、それぞれにちゃんと生活していた。部族同士の戦いはあったが、ほぼ儀式的に形骸化されていたのではないか?

 そこでヨーロッパ列強によるアフリカ分割が行われた。きのうこの欄で示したように、現地人は搾取された。だが、ヨーロッパ人も現地人が飢餓になるほどの搾取は行わなかっただろう。労働力が減っては困るからである。

 飢餓の原因がよく内戦に帰せられるけれども、そもそも内戦の原因はヨーロッパ人が持ち込んだ近代文明や統治制度や経済システムによる。それまでは、上述のように部族間の儀式的な戦いで終わっていた。各部族は自給自足だったから、内戦のような大きな戦いをする必要もなかった。

 それでも東西冷戦時代は、両陣営がアフリカの民を自分の陣営に取り込もうとして多大な援助を行った。そのため、アフリカは一時、ひどくは困らなかった。ところが1980年代後半に冷戦が終結すると、両陣営とも勝手なものでアフリカから手を引いてしまった。これにより、アフリカには再び飢餓がきた。(そのころ起こった干ばつが被害に輪をかけた。)

 要するに、アフリカは先進国に翻弄され続けたのだ。そこに対して、先進国出身のユニセフが、まるで罪滅ぼしのように援助の手を差し伸べようとする皮肉な構造となっている。

 以上は、乏しい情報による私の妄想である。聞き流してくださって結構だ。だが、これだけは言っておきたい。すなわち、アフリカの飢餓はどこにどれだけあるのか、場所と程度を正確にかつ系統的に伝えてくれ。飢餓がアフリカの代名詞であるかのような漠然としたイメージ戦略はもうやめてくれ。

植民地とは何か?

2013-04-07 03:48:15 | 文化
 少年のころ私は地図を眺めるのが好きだった。世界地図では、アフリカやアラビヤ半島や中国の奥地には国境線が描いてない部分があった。そこはまだ、測量も行われていないほど未開の地なのだなと想像した。

 中にベルギー領コンゴなんていう国があった。これは何かと父親に問うと、植民地だと答えた。植民地とは何かとさらに問うたが意味がよく理解できなかった。

 要するに植民地は先進国がそこを支配し、統治している場所だということが分かった。先進国は現地人を働かせて富をかすめ取っていたのだなと思った。西欧が驚くほど美しい都市をもっているのは、植民地から富を吸い上げた結果かもしれないと考えたが、本当にそうなのか今もって分からない。

 朝鮮半島の人は日本に植民地にされたと未だに怒っている。日本の右寄りの人は、インフラを整えてあげて、ロシアの支配から守ったのだから、恨まれる筋合いはないという。彼らの言い分では、日本の指導により衛生面が格段に進歩し、平均寿命は20代から40代に飛躍的に伸びた。100校くらいしかなかった小学校を4000校に増やして識字率を急伸させた。その際、ハングルを禁止しなかった。阪大や名大よりも先に京城帝大を設立した。これまで、どこの宗主国も愚民政策をとるのが普通だった。日本は逆に朝鮮の民衆を教育した。だから日本は感謝されるべきだという。

 植民地支配の仕方は千差万別だったのだろうと私は考えている。奴隷貿易を行うようなあからさまな支配もあっただろうし、平和的に統治したやり方もあっただろう。

 ただひとつ言えることは、文明の注入によって、単純で原始的な生活を撲滅してしまったことだ。部族に分かれてそれぞれ一定の平衡を保っていたところに、西欧は「欲」や「巨大文明」を持ち込んだ。

 そのため、狩猟採集生活や部族単位での自給自足経済では生活するのが有利だった統合失調症者の認知特性が、今度は欠点と見なされるようになったのだと、拙著「統合失調症治療の再検討」(日本評論社)で私は主張した。一定の理解は得られたようである。

使いたくない言葉

2013-04-06 00:03:01 | 日本語
(1)私には使いたくない言葉がいくつかある。以下の言葉が好きではない。

 「自分らしく」・・・具体的に何を指しているのか分からないムードだけの言葉。シンガーソングライターが歌詞に使用することがあるが、それがヒットしているのが謎である。

 「滑舌」・・・昔からある言葉だが、最近急に使われるようになったので、かえって使いたくない。

 「真逆」・・・「正反対」のことをわざわざこう言う。流行語に近いから使用したくない。

 「生活者」・・・万年野党が好む言葉。生活者でない人なんていないから、意味不明。

 「元気をもらう」・・・元気はもらうものか?「元気づけられる」ではないのか?タメ口なのもよくない。どうせ言うなら「元気をいただく」だろう。

 「・・みたいな」・・・「私は偉いのよ、みたいな感じ」のように用いる。20年ほど前に一度はやったが、すぐにすたれた。今回はすたれず若者に蔓延している。どんな場合にも言うようになったので、いやだ。

 「たわわに実る」、「大粒の涙」・・・これらはもう慣用句のようになっているので、使用したくない。(もし俳句で使用されたら、確実にボツである。)

(2)10年上級の先輩がいやだと言っていた言葉を以下に並べる。私もいやである。

 「原点」・・・もとは数学用語。エセ左翼の学生が好んでいたので、使いたくない。

 「たたき台」・・・私にはそう抵抗はないのだが、先輩はいやだと言っていた。

 「視座」・・・「視点」、「観点」と言えばよいのに、知識人が使い始めた。知識人ぶっている感じがしていやだ。

(3)読み方でよく間違われるのが「早急」だ。多くの政治家がこれを「そうきゅう」と読む。正しくは「さっきゅう」である。「そうきゅう」と読む人は「早速」を「そうそく」と読むのだろうか。自民党の石破幹事長はさすがに間違えなかった。

アベノミクスは何に似ているか?

2013-04-05 01:08:39 | 経済
 この欄でさんざん言ってきたように、私は経済音痴である。だから、アベノミクスが是なのか非なのか意見を述べることはできない。ただ、アベノミクス(または経済政策一般)が、いったい何に似ているか、おぼろげながら分かってきたような気がする。

 アベノミクスに賛成する学者も、反対するエコノミストもいる。どちらの意見も正しいように思える。経済は生き物だというから、ここで経済を猫に例えてみよう。

 経済という猫を、一定の方向すなわち東なら東へ行かせようとする努力が経済政策だと見なすことができる。

 Aさんは、猫を東へ行かせようとするなら、東側に猫が好きなエサを置けばよいと主張するだろう。また、Bさんは、西側に犬を連れてきて吠えさせ、猫が逃げれば東に行くはずだと考える。

 Aさんは、犬が吠えれば猫は逃げるが、必ずしも東に逃げるとは限らない。横っ飛びに南へ行ってしまうかもしれないではないかと、Bさんの説を批判する。

 Bさんは、エサで猫をつっても猫が満腹だったらどうするのか。エサに興味を示さず、どこかあらぬ方向に行ってしまうだろう。やはり、犬を使って追い立てたほうが確実だと、Aさんに反論する。

 結果はどうだろうか。それは猫のみぞ知るである。猫は生き物だから、猫を東に行かせる方法に確実なものは存在しない。どう行動するかは、やってみなければ分からない。

 このようにして、猫(経済)の挙動に関して、結果が出るまではAさんの説もBさんの説も成立しうる。

 つまり、アベノミクスに対して、(結果が出るまでは)正反対の意見が同等の説得力をもって自己主張をすることができるのだ。

 私の考えはざっと以上である。自分では経済を猫に例えたのは秀逸だと思うのだが、経済通の人から見れば、とんでもない初歩的な誤解があるのかもしれない。経済に詳しい人に、私の経済イコール猫論のどこが根本的に誤っているのか、分かりやすく教えていただけたら幸いである。

ちんどん屋のメロディー担当

2013-04-04 03:03:47 | 社会
 私が幼いころ、ちんどん屋は商店街の重要な宣伝媒体だった。なにかというと、ちんどん屋が登場した。そのころ、ちんどん屋は蔑まれていた。だから、子どもたちのあざけり言葉に「馬鹿カバちんどん屋、おまえの母さん出ーべそ」というのがあった。

 じっさい、ちんどん屋には物乞いのようなところがあった。正月の仕事がないときに、「おめでとうございます」と商店街に繰り出すことがあった。商店主たちは、仕事がないのだろうと察して、いくばくかの金を与えた。

 ちんどん屋のメロディーは、アコーデオンかクラリネットが奏でた。クラリネットにはボエム式とアルバート式とがあって、クラシックではボエム式が使用される。両者はキーの配列が少し異なる。ちんどん屋はアルバート式を用いていた。ボエム式よりアルバート式のほうが大きい音が出るのだ。

 現在、ちんどん屋は激減したが、残ったちんどん屋がイベントなどに出演している。もうクラリネットは使用されず、全部サキソホンになってしまった。サキソホンはアルバート式のクラリネットよりもさらに音が大きいからだ。

 ちんどん屋は昔のままにやっているように見えて、じつは改革を怠っていないことがそれで分かる。いま、ちんどん屋を蔑む人はいない。

ストリートミュージシャン

2013-04-03 00:42:12 | 音楽
 私のわずかなヨーロッパ経験だが、ストリートミュージシャンを見かけた。

 一件は、パリの地下鉄と地下鉄を結ぶ地下道に、一人でアルトサックスを吹いている男がいた。けっこう上手かった。音が地下道に反響して、エコーが利かせてあるようだった。男の前には容器が置いてあり、お金を入れるようになっていた。

 もう一件は、ベルギーのアーケードで歌っていた聖歌隊である。若い男女が美声を響かせていた。アカペラで巧みにハモり、これもアーケードに響いて、とてもよい演奏をしていた。やはり前に、お金を入れる帽子が置いてあった。けっこうな人がおひねりを入れていた。私も入れた。

古くは新宿西口広場に「フォークゲリラ」というのが出て、ギターでフォークソングを歌っていた。聴衆が詰めかけるので、通行の邪魔になると、しばしば警察に排除された。「フォークゲリラ」は抵抗した。

 「フォークゲリラ」はお金を取らなかった。お金が取れるほど上手くもなかった。だから、通行の邪魔になるだけで、排除されても仕方がないのに、歌う側も聴衆も警官に抵抗した。

 私は彼らと同世代だったが、警官隊に抵抗してまでなにを主張したいのか分からなかった。そこには自己満足と自己顕示欲しか読み取れなかった。

 現在でも街なかで演奏している若者たちがいる。彼らはお金を取らない。だから、彼らをストリートミュージシャンと呼ぶには抵抗がある。彼らは総じて下手だ。

 街なかで演奏して、多くのファンがつき、とうとうスターダムにのし上がったデュオに「ゆず」がある。彼らは横浜の伊勢佐木町で歌っていたが、お金を取っていたのだろうか?そうでないなら、「ストリートミュージシャン出身」という彼らの肩書には賛同しかねるのだが、どうか?

俳句と散文

2013-04-02 00:01:24 | 俳句
 俳句が上手な人は散文がうまくないという印象がある。反対に、散文が平均以上に書ける人は、俳句が上達しない。私がそうだ。

 私は俳句を始めて四半世紀になるが、上達したのは最初の2年間くらいで、あとは横ばいである。

 私が俳句に導いた女性の友人は、2年くらいで私を追い越し、とうとうある結社の賞をもらうまでになった。彼女は散文がまったくだめである。

 ある事象を17文字で言いきる才能と、長々と散文で言う才能は、どうも両立しないようだ。

 その昔、文人俳句というのがはやった。文人とは芥川龍之介や夏目漱石である。以下は彼らの俳句である。私にはさほどよい俳句だとは思われないのだが、みなさんはどのように思われるだろうか?

  兎も片耳垂るる暑さかな  龍之介

  あるほどの菊投げ入れよ棺の中  漱石