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獅子窟寺2

2014-01-25 20:23:26 | 日記

生駒山塊の普見山中に位置する。
山内には寺号の由来となった獅子が吼える形の岩もある。
黄檗僧・月潭による『獅子窟寺記』(元禄5年・1692年)によれば、当寺は文武天皇の頃、役行者が開山し、聖武天皇の勅命により行基が金剛般若窟の寺号で創建したとされる。
天長年間(824 - 833年)には空海が当地で仏眼仏母の修法を行ったという。
永正4年(1507)、僧・真海による『獅子窟寺縁起』も役行者草創を伝える。当地は平安時代には葛城修験の山岳霊場となっていた。
『新後撰和歌集』には、静仁法親王(後土御門天皇第6皇子)が当地の「獅子のいはや(岩屋)に籠り侍りける」時に詠んだ歌が残されている。
鎌倉時代に一時衰退し、亀山上皇の帰依により14世紀には復興するが、元和元年(1615年)に焼き討ちに遭い全山十二院を焼失した。
これは大坂夏の陣の際に当寺が豊臣方への加勢を拒否したためであるという『日本名刹大事典』。
現存する薬師如来像は塔頭吉祥院の法師の尽力によって難を逃れ、一時大和国に避難していた。
その後寛永年間(1624 - 1643年)、和泉槇尾山寺(施福寺)の光影により再興され、現在に至っている。


獅子窟寺

2014-01-25 20:16:54 | 日記

10時45分、獅子窟寺に到着。
天田神社から歩いて20分といったところ。

獅子窟寺の開基は役小角と伝えられる。
寺伝によると奈良時代45代聖武天皇(在位:724~49年)の勅願により行基菩薩が堂塔を建てたといわれ、平安時代には弘法大師が獅子窟で修行したともいわれる。
鎌倉中期、亀山上皇は本尊の薬師如来仏に病気平癒を祈願し全快したので、荒廃していた堂宇を再建されたと伝わり、1305年(嘉元3年)上皇が崩御された時、その徳をしのんで供養宝塔が建てられた。
1615年(慶長20年)大坂夏の陣の折、獅子窟衆徒は大坂方に加勢すべく命じられたが、これに従わなかったため、大野治長の命で兵火を放たれ、当時全山12院があったが悉く焼失した。
このとき本尊薬師仏は塔頭の吉祥院の法師に守られ、大和の長弓寺に避難し、無事であったという。
その後、光影律師によって中興、再建されたが往時の規模の10分の1にも及ばなかったとのことであるが、現在でも広大な寺域からかっての隆盛が偲ばれる。本堂は再建された当時のものである。


獅子窟寺 仁王門跡

2014-01-25 19:55:14 | 日記

更に登ると10時41分、獅子窟寺の駐車場に着く。
数台は置けそうなスペースがある。
しかしあの道をここまで車で上がる勇気はないな。
石碑を発見。
「聖武天皇勅願 行基菩薩開祖 役行者 弘法大師 修行の旧跡」とある。
オールスターですね。
ここにも大岩があります。
もしかして加工されてる?
牛岩というらしい。
もう少し登ると仁王門跡がある。

獅子窟寺へ

2014-01-25 19:48:37 | 日記

天田神社に車を置き、獅子窟寺へ行く。
10時24分に天田神社を発ち、南に坂道を上がる。
所々に案内板があり、迷わず行けそう。
10時30分、お地蔵様が現れ、狭い急坂に入る。
獅子窟寺が近いのだろう。
お地蔵様に悪戯をする輩がいるらしい。
暫く登ると10時37分、首なし地蔵が現れる。
まさかこれをやった輩がいるのか?
割れ目を見ると、最近のものではなさそうに思うが。
まあ、猿の仕業ではないですよね。


川東神社

2014-01-25 19:40:28 | 日記

天田神社の裏、小さな川?を渡った東側に社があります。

当社の創建年代は詳らかではないが森地区は古来岩清水八幡宮の所領であった事が知られ、平成十二年には区域内の 河内磐船駅北側より平安時代の三宅山荘園の遺構が発掘され、鎌倉時代まで荘園が続く事が確認された。
また森地区の氏子は石清水八幡宮の勅祭岩清水祭に御先払神人として毎年奉仕しており未だに強いつながりを持っている。
このような事から氏神として八幡大神である御祭神をお祭りしたものと思われる。