生駒山塊の普見山中に位置する。
山内には寺号の由来となった獅子が吼える形の岩もある。
黄檗僧・月潭による『獅子窟寺記』(元禄5年・1692年)によれば、当寺は文武天皇の頃、役行者が開山し、聖武天皇の勅命により行基が金剛般若窟の寺号で創建したとされる。
天長年間(824 - 833年)には空海が当地で仏眼仏母の修法を行ったという。
永正4年(1507)、僧・真海による『獅子窟寺縁起』も役行者草創を伝える。当地は平安時代には葛城修験の山岳霊場となっていた。
『新後撰和歌集』には、静仁法親王(後土御門天皇第6皇子)が当地の「獅子のいはや(岩屋)に籠り侍りける」時に詠んだ歌が残されている。
鎌倉時代に一時衰退し、亀山上皇の帰依により14世紀には復興するが、元和元年(1615年)に焼き討ちに遭い全山十二院を焼失した。
これは大坂夏の陣の際に当寺が豊臣方への加勢を拒否したためであるという『日本名刹大事典』。
現存する薬師如来像は塔頭吉祥院の法師の尽力によって難を逃れ、一時大和国に避難していた。
その後寛永年間(1624 - 1643年)、和泉槇尾山寺(施福寺)の光影により再興され、現在に至っている。