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磐船神社3

2014-01-13 17:51:01 | 日記

河内国川上哮ヶ峯 磐船神社略記 磐船神社御由緒

当社御祭神は天照皇大神の御孫神であり、日本書紀等国史によりますと、神武天皇のご東征以前に日本の国の中心である大和の国(現今の奈良県)に入らんとして天の磐船に乗り天降られた天津神であります。
また先代旧事本紀によりますと「天孫瓊瓊杵尊に先立ち天祖の詔をうけて十種瑞の神宝を捧持し三十二人の伴緒を率い天の磐船に乗り天翔り空翔り河内の国川上哮ヶ峯に天降られた」とあります。
太古淀川は枚方(シラカタノ津)付近まで入江となっており、大和に入るには当地哮ヶ峯の麓を流れる天野川を溯りつつ大和に入るのが至便であったと考えられます。
御祭神は当地に降臨された後は先ず十種瑞神宝を以て病み災う者を助け給い和を以て人々を導き給わったのであります。
十種瑞神宝は後世神道家必修の祝詞「十種の祓」の根元をなし、現在でも鎮魂作法の根本として、神職・宗教家の修行研鑽する処であります。
その後時代を経て神武東征の砌御祭神の子孫は、東征軍に敵する鳥見の首長である長髄彦を諫し神武天皇大和創業の基幹となり代々武人の一族である物部として朝廷に仕え、御祭神はその遠祖と崇められたのであります。
その教義(十種瑞神宝)は永く代々の朝廷と共に栄えましたが、用明天皇二年(西暦五八七)物部蘇我の争いから遂に物部氏の滅亡をみ、仏教の隆盛を来したのであります。
以来当社はその影響を受け社勢の衰退を余儀なくされましたが、御祭神のご事績と十種神宝の御稜威は磐船の磐座と共に人々に篤く信仰され、その根本意義はなお現として神道の血肉となり伝承されております。
古事記日本書紀以外の書物では、先代旧事本紀巻五に天照�査貴(天照皇大神)の太子正哉勝々速日天押穂耳尊、高皇産霊尊が女、万幡豊秋津師姫栲幡千々姫命を妃となし天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊を誕生す。(略)
天祖、天爾瑞宝十種を以て、饒速日尊に授けたまふ。
即ち此の尊、天神の御祖の詔を稟けて、天の磐船に乗りて天降りて、河内国の河上哮ヶ峯に坐す。(略)
所謂、天の磐船に乗りて大虚空を翔行きて、是の郷を睨りて天降りたまひて、「虚空見つ日本の国」と謂ふは是なり。
続歌林良材集(貞享元年(一六四四)刊)
饒速日尊と申せし神天祖の詔を受けて天磐船に駕し給いて天降りて河内国河内哮ヶ峯にいたりこれより遷りて大和国鳥見の白庭にいましき云々今河内国に磐船明神とておはすはかの饒速日尊をいはひ申すと云う。
雲根志 後編巻之三(安永八年(一七七九)刊)
河内国交野郡天河に岩船大明神と云大社あり。
此処に岩船あり、かたち船のごとし。
六月晦日神事なり。
その他貝原益軒の南遊紀行に磐船明神の事を伝え、明治維新の先覚者伴林光平の捕へらりし時磐船山間近より「梶をなみ乗りて遁れん世ならねば岩船山もかひなかりけり」と詠み古来より有名でありました。
当社は古くは物部氏、特に交野に在住した肩野物部氏が祖先降臨の地として祭祀を行い、物部滅亡後も磐船・星田・河内田原・大和田原の近隣四村の総氏神として崇敬されておりました。
また、当社は生駒・葛城の修験道の発祥の地近くに位置し、中世以降その影響を強く受け、生駒修験の北端の霊地として栄えましたが、江戸時代の半ば宝永の頃相次ぐ天災により社殿を失い、交通その他種々の事情により、村々ではついにそれぞれにご分霊を祀り、宝物をも分祀されたことにより、本社は衰退の一途をたどり、磐座のみが残る有様でありましたが、昭和に入り社殿などが整えられ、ようやく復興を遂げたのであります。


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