金星音楽祭のすべての演目が終わり、私は上司であるNPO法人なごやかの理事長のあとをついてロビーに出た。
そこで呼び止められた。
理事長とは旧知の間柄の、他法人事業所の管理者だった。
「お時間があれば、少し聞いていただきたいことがあるのですが。」
二人はロビーのソファに向き合って座った。
理事長は私にも同席するよう、目配せした。
今、あるプロジェクトを上司から任されて進めているのだけれど、どうもイメージ通りに運ばず、自分の仕事のできなさ加減を痛感している、そんな内容だった。
うなずいたり首を横に振ったりしながら聞いていた理事長は、相手が話し終えても少しの間沈黙を続けた。
それは、どこから話そうか、ひと筆目の置き所に迷っているように見えた。
やがて口を開いたのだが、案にたがわず、そのひと言目は意外なものだった。
「はっきり言って、長いこと僕はきみの上司たちをひどく妬ましく思っている。
でも、みな何もわかっていない。
きみの使い方をまったくわかっていない。
きみは特別なひとで、ただいるだけでいいのだ。
そこにいるだけで、周りを暖かい気持ちにさせ、特別に選ばれたような気持ちにさせる。
ホラ、昔のひとはよく言ったじゃない、『床の間に飾っておきます、床の間に座っていてくれるだけでいいんです』って。
高価な美術品や、美しいブロンズ像を働かせようとしたり、元をとろうとするひとはいない。それらが置かれた時に一層映える環境を真剣に考え、整備することはあっても。
きみが仕事ができそうだから(いや、実際できるのだけれど、)相手は頼むのだろうし、きみもまた使命感から率先して仕事を引き受けてしまうのだろう。
でも―普通のひとには分からないだろうな。
きみには取扱説明書がない。
なにせ、そこに存在するだけでいいのだから。
だから、逆なのだよ。きみの上司が汗をかいてプロジェクトをまとめ、終わった後にきみを置く。これが正しい形だ。―僕ならきっとそうするね。」
まったく予想外の話を身じろぎもせず聞いていた彼女の大きく見開かれた目はだんだんと細まり、やがてぷっと吹き出した。
そして竹のドアチャイムが風にそよいだ時のように小気味よくカラカラと笑った。
最上級の賛辞を受け取って、胸のすく思いがしたのだろう。
私までうきうきとした気分になった。
「あとできみの事業所に宅急便で台座を送るから、その上に立っていなさい。迷ったら連絡するのですよ、この老いぼれ宮廷詩人がまた楽しい曲を奏でて差し上げるので。」
理事長は立ち上がると手を差し出し、二人は握手した。
私にはその時間が少しだけ長いように思えた。