売れない画家のNは時々画商から口座へ振り込まれる作品の売買代金だけでは暮らして行くことができず、児童生徒向けの絵画教室での講師のアルバイトでなんとか糊口をしのいでいた。
そんなNにもたった一つだけ自慢できるものがあった。
7年ほど前のこと、これまたアルバイトで資産家宅へ額装の修理に行った際に、丁寧で手早い仕事ぶりがその家の未亡人の目に留まり、駄賃代わりにといただいた絵筆である。
金色がかった真珠色の柄はほっそりと長く、筆毛もきれいに揃っている。
由来は未亡人もわからなかったが、亡くなった夫が買い求めたものだそうで、先の方に小さく画材店の名前が印字されていた。
Nはとても喜び、以来、大事な作品を制作する時は必ずその絵筆をメインに使うようになった。
ある夜、絵画教室から狭いアパートに帰り、自分の作品に取り掛かろうと道具箱を開けたところ、例の絵筆がない。
Nは心臓がのど元までせり上がってくるのを感じた。
すぐさま電車に乗って教室に戻り、室内を隅から隅までひっくり返すように探し回った。
ないのが分かるとNは教室の主催者へ掴み掛らんばかりににじり寄って生徒の名簿を奪い取り、全員の自宅へ連絡して絵筆のことを尋ねた。
誰も知らないと答えた。
Nは教室をクビになった。
あの絵筆のことはもう忘れよう。
そう心に誓うものの、翌日にはまた考えている。
気を紛らわそうと、彼は絵に打ち込んだ。けれども、めっきりといい作品が描けなくなっていた。
寺で座禅を組んだ。
陶芸に傾注した。
写経に取り組んだ。
ところが、やればやるほど、気分転換のつもりが逆に精神が集中し、モチーフではなく絵筆のことを考えてしまう。
Nは意に沿わない仕事をしながら、時間と予算が許す限り、県内・県外あちこちの画材店を巡り歩いては同じような絵筆を探し、買い求め出した。
あの絵筆が販売された店にも行ってみた。けれども、老店主からはもうそのメーカーは廃業しており在庫もない、と言われてしまった。
Nの手元にはどんどん不要な絵筆がたまって行った。
それが二年ほどたったある日、期待もせずにまた老店主の元を尋ねると、彼は笑顔でNを出迎えた。
「ちょうどアンタへ連絡するところだった、いいところに来た。これが探していたものじゃないか?」
一目でわかった。
Nは震える手で絵筆を受け取った。
感触は元のままだった。
「でもどうして―」
「ごみ収集の作業員が、やぶれた家庭ごみの袋から柄が出ているのを見つけて、高価なものではないか、と古道具屋に持ち込んだそうだ。
そこの店主は私の古い仲間でね、ウチの店名が印字されていたので、買い取った後に電話をくれた。
それで昨日、買い戻しに行ってきた。」
「ああそうでしたか。ではお代はお支払いします。ただ、持ち合わせが少ないので全額払えるかどうか―」
「馬鹿を言いなさんな、考えてもごらんよ、シンデレラはガラスの靴を取り戻すのにお代を払ったかい?
無粋なことを言っちゃ困る。そいつはアンタのものだ。アンタが持っているのがいいんだよ。」
気がせいていたNは、開けたつもりのアパートの玄関ドアに激突してしまった。
彼は部屋に放り出していたキャンバスを拾い上げ、それに恐る恐る絵筆を置いた。
するとどうだろう、それまで自分の中でバラバラだったものがあたかもベルトコンベアを通したかのように再び組み上がってくるのを、彼は感じていた。