東京創元社から刊行された「ジャン・コクトー全集」(全8巻)の第一回配本「第三巻 小説」を、19歳の僕は清水の舞台から飛び降りる以上の気持ちで買った。
定価6500円だった。
その中の月報(新刊の全集に挟み込まれる付録の小冊子)に、「コクトーと六代目菊五郎」(戸板康二作)という、忘れられない短い評伝が掲載されていた。
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(前略)1926年の二月に、八十日間世界一周の旅に出たコクトーは、日本でさまざまな見聞をしたが、スポーツでは相撲、芸能では歌舞伎にふかい印象を受けたらしい。
ちょうど歌舞伎座で、六代目(尾上菊五郎)が「鏡獅子」を演じていた。(中略)
堀口大學先生が六代目を紹介した。女小姓弥生という「鏡獅子」前シテの扮装を終えた役者とコクトーは握手したが、白粉(おしろい)を塗り終った相手の手をかばって、固く握らずに、そっと手に手を重ねただけだったという。
「コクトーって、作家かい」と、新聞記者に六代目が尋ねた。
「フランスじゃア、有名なのかい」
「もちろんです。世界的な詩人、芝居も小説も書く人です」と答えると、
「何も読んじゃアいないが、えらい人にちがいない。芸術家だね」といった。
「どうして」と反間すると、ニッコリ笑った六代目がいった。
「白粉がはげないように気をつかって握手をしてくれた。なかなか、あんな風にはゆかないものだ」(中略)
じつは、コクトーが菊五郎の手をいたわったのは、コクトーのするどい感受性のせいであった。毎日新聞にのったコクトーを囲む座談会で、こんなふうに、しゃべっているのである。
「私の忘れられない思い出になると思うのは、楽屋で新聞社のキャメラに向って握手をした時のことです。小姓の扮装をして舞台に出ようとする菊五郎でした。私はかれの手を握ろうとして、瞬間、かれの眼の中を見たのです。するとその瞳にちらりと不安の影がさしているではありませんか。それは手の先まで丹念に化粧を凝らしているかれが、私との握手によって、その化粧のそこなわれることをおそれたからでしょう。私の直感にその不安がぴりっと来ました。私はキャメラに向って、ただ彼と握手している真似をするだけにして、彼の手にふれることをやめたのです。すると菊五郎の眼にさしていた不安の影が去って、もとの輝きが見えました。私はこの菊五郎のいかにも芸術家らしい、繊細な神経の鋭敏さに心を打たれました。その瞬間を、私は一生覚えているでしょう」
1951年にパリでコクトーと会った特派員の記事が朝日にのったが、その時も、菊五郎に会った時こういうことがあったと、同じ話をしている。六代目のほうもコクトーを評価したが、コクトーも六代目を買っていたわけだ。なお年齢としては、コクトーが四歳若かった。(後略)
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引用が長くなった。
相手を慮ること。繊細な気遣い。こういったものはかつての日本人ならみな持ち合わせていたのだろうが、今はすっかり失われている。
けれども、ほんのたまに、それを感じさせるひとに会う。
かすかな静電気のような、磁力のようなものが、コクトーの言うように、直感にぴりっとくる。
そして自分はというと、そんな相手ですらうっかり見逃すくらい自然に、配慮を手渡したり置き土産にしたりできたらと願っているものの、実際はやることなすこと外連(けれん)ばかりだ。