猫のキキとヒゲおじさんのあんじゃあない毎日

『あんじゃあない』って、心配ない、大丈夫っていう群馬の言葉、いい歳こいたキキとおヒゲのどうってことない前橋の暮らしです

佐久間川 第36回 上毛電鉄佐久間川橋梁 

2013-10-28 06:28:00 | あんじゃあない毎日

Dscf5264 勢多農林の正門前を過ぎて、佐久間川は流れを南へ変えます。
ますます川は深さを増します。コンクリートで固められた高い壁の底を川は流れています。

 

 

 

Dscf5261 南へ向きを変えた佐久間川は、大胡県道(「群馬県道3号前橋大間々桐生線」が正式な名称だそうです)の下をくぐります。この橋には、名前がありません。県庁さん、付けてくんないかな…、名前ぐらい

 

 

 

Dscf5268 名無し橋から南の方を見ると、岸から柿の木が枝を伸ばしていました。黄色く熟れた実が、いくつか枝についています。
この橋のあたりが、この辺ではちょっと小高くなっていて、西へも、南へも下っています。佐久間川は丘を裂くように掘り下げられています。

 

 

 

Dscf5274 佐久間川の西側は城東町5丁目、市営住宅がたくさん並んでいます。
子どものころは、私が物心ついた天川の戦災住宅と同じような木造の長屋づくりの市営住宅が地面にはりつくように並んでいました。
 

 

Dscf5273 それが、鉄筋コンクリート造の集合住宅となり、更に何度かの改築を経て、今の姿です。
城東町団地は、全部で10棟、188戸です。
佐久間川沿いの公園では、グランドゴルフの練習をする人の姿がありました。

 

 

Dscf5258

公園の先の佐久間川には、上毛電鉄の鉄橋がかかっています。上りの電車が、大きな音を立てて、鉄橋を渡って行きます。
短い鉄橋なのですが、中央に橋脚があって、佐久間川の川筋は二手に分けられています。

 

 

Dscf5278 電車に乗って、この鉄橋を渡ったのは、桐生の動物園へ行った時が最初なのか、竹の花プールへ行ったのが最初なのか、一生懸命考えても分かりません。
でも、ずいぶん小さな時に乗った覚えかあります。飛びあがっても吊革に届かない、椅子に上って飛びあがって、やっと片手が輪っかに触れた瞬間の嬉しさを覚えてます。

    
 

 

Dscf5284

下り電車が佐久間川橋梁にかかるところです。
上毛電鉄は1928年(昭和3年)11月10日に中央前橋駅~西桐生駅間で営業を開始しました。ですから、今度の11月10日で85周年を迎えるのです。
11月10日には、『開業85周年記念デハ101臨時運行』があるみたいですよ。

 

 

Dscf5391 上毛電鉄を計画した田島丑太郎は、旧粕川村の地主の息子、計画した時はまだ早稲田大学の学生だったのです。上毛電鉄の創業期の計画は、コチラに詳しくまとめられてます
昨日は前橋工科大学の学園祭『翌檜祭』、会場で若い学生たちの姿見ながら、丑太郎みたいな奴、いないかな、いるよなきっと、と思ってました。

 

 

Dscf5277 今、上毛電鉄の走る音や、踏切の警報音が届くところで暮らしています。
川の瀬音もいいけど、鉄道の音もいいですよ。10年ちょっと聞き続けていて、なくては困る音になってます。暮らしの一部なんです、上電の音が…

 

 

Dscf5280 佐久間川は、上毛電鉄佐久間川橋梁の下をくぐって、更に南に流れ下って行きます。

 

 

 

 

Dscf2001『佐久間川』、おヒゲがマイペースでぼちぼち連載してます。
まとめてお読みになりたい方は、サイドバーのカテゴリー『佐久間川・前橋』をクリックされるか、コチラをクリックしてください。
次回は、子ども公園にたどりつきます>

 

 

210月26日の前橋市民文化祭『日本舞踊』にお越しいただいた皆さま、ありがとうございました。ふれあい教室の子どもたちもとてもよかったです。
11月17日午後1時からは、『温故和楽会』(群馬県民会館)です。お弟子が清元『梅の春』で出演いたしますので、よろしくお願いします。(若柳糸駒)
『若柳糸駒日本舞踊教室のご案内』もごらんください

 

 

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2 コメント

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 こんにちは。大胡県道を三俣方面に抜けるとき、... (トウキョウサンショウウオ)
2013-10-28 14:35:03
 こんにちは。大胡県道を三俣方面に抜けるとき、いつも不思議に思っていたことが、佐藤さんのおっしゃる通り、佐久間川が地形的に一番高いところを流れている、ということでした。そこで一つの仮説です。暇つぶしだと思って聞いてやってください。
 昭和34年の住宅地図を見ると、現在のちょうど東部バイパスのラインと同じ位置に旧市街地を囲むように旧水田地帯との境目に川が描かれています。この川に関して、幼児だった私には全く記憶がないのですが、川は若宮小の東の飯玉神社の東付近から清王寺町の北および東を南下して、旧市女や勢多農の東の縁を回って、佐藤さんのいう「名無しの橋」のところで佐久間川と合流しています(住宅地図を見ると、本来の流れはそのまま南下していたように見えます。痕跡?が道路として描かれていますので。それを、県道のところで、無理やり佐久間川に合流させたように見えます。洪水対策か何かでしょうか。三俣町は私の記憶でも湿地帯でしたし)。佐藤さんが撮られたブログの二枚目の写真がもし南に向けて撮られたものなら、橋の下流側に左から流れ込む小さな水流が見えますが、これがその名残かも知れません。多分この川は佐藤さんの言われる「丘陵」地形の一部の東縁を巻くように流れていたのでしょう。三俣の名は、もしかしたら、この流れと佐久間川と広瀬川の三河川が集まる場所の意味かな、などと想像をたくましゅうしています。
 一方、佐藤さんの言われる「丘陵」の西縁ですが、同じく住宅地図によると、「みずき橋」のところで佐久間川から直角に分流して南下する小さな流れがある事が分かります。この流れはみずき通りに沿って南下し現在の城東二丁目?を過ぎ、三丁目?に入るとやや大きな流れとして描かれています。現在コンビ二があるその駐車場部分、及びこれに南接した「なかよし公園?」部分です。この川は私の記憶にもありまして、幼児の目には結構大きな川として映っていました。川は旧二中に向かって南下し、最終的には広瀬川に注いでいたものと思われます(多分現在でも暗渠として残っているのでしょう)。
 地形の高低などは現在ではもう確認できないかも知れませんが、もしかしたら、この流れが「丘陵」の西縁に沿って存在した本来(自然)の佐久間川?(あるいはその原形としての水流)の姿であって、城東小と勢多農の間など「丘陵頂部」を流れる現在の佐久間川は後世に人工的に掘削されたバイパスなのではないでしょうか。あたかも、本来本郷台地の西・南縁を迂回して駿河台下(神田の古本屋街附近)を流れていた古い流れ(平河)を、江戸時代にお茶の水のところで本郷台地を谷状に掘削して直線的なバイパスを作り横断させ、これを神田川と呼んだように。佐久間川が不自然な「小さな谷状」を呈するのは「みずき橋」から下流ですよね。何らかの理由で、いつかの時代に、この部分を人工的に掘削したような可能性はないでしょうか。そうでないと、なぜ佐久間川が地形的にこんなに高い部分を谷状に流れているのかの説明がつきません。まあ、もともと佐久間川が人工河川だとすれば、いずれにしろ、この部分も人工的に掘削されたのは間違いないのでしょうが、私の仮説は「みずき橋」くらいまでは後の佐久間川となる以前のなんらかの自然の流れがあって、もちろんその部分も後に人工的に改修されましたが、その一方「みずき橋」以東の丘陵部のそれは、何もないところをすべて新たに人工的に掘削して川にしたのではないかということなのです。
 すみません長々と。そもそも佐久間川そのものの来歴(自然or人工河川)や歴史に関して、何も調べてない無精者なので、とんでもない無知をさらしたかもしれませんが、佐藤さんの「丘陵」という表現一点に我意を得て、以前から漠然と考えていた妄想を書いてみました。戦前や明治時代の地図(もっと遡って江戸時代のものも)の存在など、いろいろ教えていただければ幸いです。
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トウキョウサンショウウオさん (ヒゲクマ)
2013-10-28 16:26:12
トウキョウサンショウウオさん
佐久間川は、現在でも河川法の河川ではありません。「準用河川」といって、河川法を準用して市が管理している水路です。旧小出村から国領村と清王寺村の一部の田畑に水を届ける農業用水であったんです。自然の川ではありません。人が掘ってつくった水路です。
ご指摘の東部環状線のルート付近を流れていた水路は良く覚えています。六ヶ村堰から取水した水を清王寺村の東と三俣へ給水する水路です。よく魚の獲れる川でした。一枚目の写真の佐久間川の流れの右側、少し高いところを流れているのがその水路が佐久間川に合流するところ、写真にありませんが、小さな滝になって佐久間川に落ち込んでいます。
佐久間川から分水した水路や広瀬川の交水堰で取水した水の末が、いくつかの水路になって城東町のほうへ流れていたようです。現在、五十嵐皮膚科のある角から十六本堰に向かう道筋には道沿いに水路があって、家の玄関に橋が架けられていたって、魚も獲れたって話を、町内の皆さんから聞いています。旧一毛町は、明治時代でも、前橋の町外れ、罷病院や屠畜場がつくられたところです。今のような住宅地ではなかったと思います。交通公園のあたりには牧場があったと聞いています。
佐久間川は人工の水路です。自然にできた川ではありません。それに、広瀬川のような大きな用水でもないので、昔の資料はほとんどありません。旧村単位で管理してましたから、農業用水としての記録も見つかりませんでした。江戸時代の前橋城下の古図だと、絵図の外になると思います。
「三俣」の地名は、旧桂萱村の字名です。桂萱村は、明治22年の町村制で13ヶ村が合併した時に、故事に詳しい人が、『和名類従抄』にある古代の郷名からとったと聞いています。三俣は、そのときの村の一つです。名前の由来はわかりません。
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