前橋市住吉町2丁目にある『あたご歴史資料館』前に、こんなもんがつくられています。
これって、太平洋戦争のとき米軍の空襲から身を守るために作られた『防空壕』を復元したものなんです。
『防空壕』の入り口に貼られた説明書きです。
「前橋市でも市民6千人の収容を目指し公民併せて一万数千カ所に造られた。更に、比刀根橋近辺などに、47カ所(地下式22カ所、半地下式25カ所)の公共用防空壕がつくられた。(中略)
ここに復元した防空壕は、前項の三分の一ほど地面を掘り下げ、内部は板張りで外部を壁土で覆った家族規模のものである。果たして防空壕がどれだけ安全か、前橋空襲の折避難した前橋市民の多くが焼死し圧死し、実際何の役にも立たなかった」と書かれています。
『ひまわり』というタイトルの本です。今、前橋市では『戦争を忘れない』というイベントが数ヵ所の会場で開かれていて、
この本は前橋文学館の3階に展示されています。(8月19日まで)
『ひまわり』は、原田恒弘さんの戦争体験です。原田さんは、前橋空襲のとき、比刀根橋の脇に造られた公共用防空壕に避難しました。多くの避難民が命を失う中、生き延びた数少ない生存者の一人でした。『ひまわり』には、悲惨な防空壕の体験がつづられています。
生き延びた原田さんは、考古学を勉強され文化財保護の仕事をされてきました。この防空壕の復元は、原田さんが主導されたと聞いています。
戦時下の記録をきちんと調査して復元されたものだと思います。ぜひ見に行ってください。
あたご歴史資料館は、住吉町二丁目の皆さんがつくり、運営している資料館です。火・木・土の午後1時から3時が開館日ですが、防空壕の復元は前庭にありますから、開館していなくても見学できます。
比刀根橋の北詰めにある前橋空襲の犠牲者の慰霊碑です。この場所に、原田さんが生き延びた公共用防空壕があったんです。今から、69年前の夏のことです。
前橋が米軍のB29型爆撃機を主体とする爆撃により破壊されたのは、1945年8月5日の夜10時からでした。左の地図の赤く塗られた所が空襲を受けた地域です。
襲撃したアメリカ軍のB29 92機
投下した爆弾 723.8トン(焼夷弾 691.0トン 破裂爆弾 17.6トン 通常爆弾 15.2トン)
焼失面積 市街地の8割
焼け落ちた家 11,518戸
死者 535名
負傷者600名人以上
これが、前橋空襲で記録された数字です。忘れてはいけない数字です。失われた命と暮らしを忘れてはいけないんです。
8月5日、比刀根橋の袂の慰霊碑では、住吉2丁目の皆さんが中心になって犠牲者の慰霊祭が午前9時から行われます。
立川通りの熊野神社では、紙灯篭が並べられ、夜まで、平和祈願祭が行われます。
それに、前橋市役所のロビー、前橋文学館でも関連する展覧会等をしています。
<来年はさ、おヒゲも70歳てことはさ、前橋空襲から70年なのよね。
前橋市ではさ、70年目の節目の来年の8月初めに、市民ミュージカル『灰になった街』の公演を計画しててさ、出演者の募集をしているんですよ。詳しくは、こちらを見てください>
前橋で日本舞踊の師範をしております、直派若柳流の若柳糸駒です。ヒゲおじさんのパートナーは、キキでなくて、あたしなんです。
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4月に開催いたしました『美登利会』の様子は、こちらでご覧下さい。
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良くお調べいただき、また皆様にもご案内していただき、ありがとうございます。原田に代わって御礼申し上げます。 あたご歴史資料館運営委員おおたともや
とんでもないことです。太田さんや原田さんはじめ住吉町2丁目の皆さんのご努力には頭が下がります。これからもよろしくお願いします。
壁土の厚さは15cmほどですから、直撃を受けなくても爆風で壊れると思いますし、焼夷弾の燃焼から人命を守るほどの遮熱効果もないお粗末なものです。収用計画人数と壕の数ですが、自宅、仕事場、学校などいろんなところですぐに逃げ込めるようにとのことから、人数よりもはるかに多くの壕が必要であるとの計算であったようです。不思議な計算です。