猫のキキとヒゲおじさんのあんじゃあない毎日

『あんじゃあない』って、心配ない、大丈夫っていう群馬の言葉、いい歳こいたキキとおヒゲのどうってことない前橋の暮らしです

『勢多農林(その1) 「風雪」 佐久間川 第34回』 再掲載です

2019-05-17 07:55:38 | あんじゃあない毎日

群馬県立勢多農林高校の本館玄関前のロータリーで暮らしているカヤ(萱)の木です。
カヤは、「千年萱」と言われるようにとても寿命の長い樹の一つです。小野小町の『百夜通い』の伝説もカヤの実です。不思議な木です。
おヒゲの佐久間川シリーズ、途中をうんと端折って、今日は第34回、この萱が暮らす勢多農林のお話です。

 

『勢多農林(その1) 「風雪」 佐久間川 第34回』 (2013年10月24日)

 

Dscf4811老人ホームの先で、佐久間川はS字を描くように緩やかにカーブしています。川の北側は勢多農林高等学校です。 私が子どものころ、佐久間川の川岸には果樹園があって、梨や桃が栽培されていました。

 

 

 

Photo私の手元にこんな本があります。『風雪 県立勢多農林学校32回生記念誌』(平成17年刊)です。 10年前のことです。県庁の先輩のKさんが、「勢多農林へ昭和18年に入学した仲間で記念誌を出すことにした。ついては、恭平先生の思い出を一筆書いてほしい」と言って訪ねてきました。昭和21年3月卒業、戦時下から、敗戦の中を勢多農林で学んだ皆さんです。お断りする理由はありませんでした。

 

 

2 父が勢多農林に赴任したのは昭和17年4月です。私が生まれたのは昭和20年4月、生まれる前の話です。 私が覚えている一番古い父は、新しい教育委員会制度を支える人材育成のために、GHQの命令で東北大学へ研修に行っていました。お土産がジャムパンだったことをはっきり覚えてます。 写真は『風雪』の扉の文章です。

 

 

31 『風雪』の序文の前半です。学校での勉強はほとんどなく、援農や勤労奉仕に明け暮れていたことが書かれています。その中にある北海道への援農は、昭和19年8月から、約100日間にわたって、羊蹄山を眺める虻田郡真狩村と留寿都村の農家に泊まり込んで行われたものです。14、5歳の生徒たちが…です。

32 序文の後半です。陸軍特別幹部候補生、海軍飛行予科練習生への志願、軍事施設への奉仕等のことが書かれています。 序文には、「これらの関係資料は学校に全くない」と記されています。 占領軍による処罰を怖れた学校は、敗戦と同時に、軍への協力が分かる資料をみんな処分してしまっていたのです。父も、きっと、書類を火に投じていた一人であったはずです。

 

 

Dscf5050 「わしらが勢多農林で何を勉強したのか、この国にどういう貢献をしたのか、何の記録もないんだよ。だから、一人一人が覚えていることを書いて、そのまま本にしようということになったんだ」。 消された歴史は、今書き残さないと消えたままになってしまう、自分たちの歴史を『記念誌』に記録したい、Kさんは静かに話されました。

 

 

Dscf4817 昭和18年入学の皆さんを指導した教員は、私の父も含めてみな他界してしまっていて、遺族も、ほとんどこの地で暮らしていないということでした。 私は、『干し柿』という一文を書きました。戦後、昭和25、6年ころの記憶です。

 

 

Photo_3 私の駄文に続いて、生徒だった天野一男さんのお話が収録されています。北海道援農のときの父の思い出を話してくれています。 この話の中に、『実習日誌』というのが出てきますが、次のページに、天野さんの実習日誌の写真が掲載されています。克明な日誌、当時の勢多農林の生徒の手書きの日誌です。クリックして、ポップアップ画面で読んでください。

21 22強く心を打たれます。戦時下、本人が希望することではなく、『命令』されて、実習と援農・奉仕に明け暮れていた10代半ばの青年の日誌です。 几帳面に、ほんとうに真面目に、取り組んでいた姿が伝わってきます。えらかっただろうにね…

 

Dscf4818『風雪』でいろんなことを知りました。戦争が勢多農林の生徒たちにもたらしたものが、一人ひとりの皆さんの、一つひとつの事実として、『風雪』のなかに積み上げられました。 消されかけた歴史が、事実の積み重ねとして残されました。 事実って、すごいです。

 

(補遺)次の文章は、「第34回勢多農林(その2) カヤの木」からの引用です。

Dscf5062勢多農林は1908年(明治41年)の創立ですから、105年の歴史を積んでいます。 私の父は福島の生まれ、宇都宮高農で畜産学を学び、埼玉県所沢、長野県伊那町、茨城県結城町の農学校で教員をしていました。 1942年(昭和17年)、乞われて勢多農林に転じてきたと聞いています。私が生まれる前のことです。

 

私と私の家族は、この学校が無ければ、この地に存在しなかったのです。

第35回から37階の再掲差はしません。お読みになりたい方のために、リンクを掲載しておきます。
第35回 勢多農林(その2) カヤの木 こちらです
第36回 上毛電鉄佐久間川橋梁 コチラです
第37回 一毛町 こちらです

 

おひげと一緒しているドイツ生まれの連れ戻し人形さんと連絡が取れました。おヒゲ、元気だそうですよ。

 

 直派若柳流の三代目若柳吉駒でございます。 4月7日に、二代目吉駒の三回忌追善と三代目吉駒襲名披露を兼ねて第76回美登利会を開催いたしましたところ、たくさんの皆さまにお運びいただき、大変ありがたく、心より御礼申し上げます。 また、三代目襲名リサイタルに特別出演していただいた三代目花柳寿楽様、葛西聖司様をはじめ、美登利会の開催に一方ならぬご支援をいただいた皆さま方に伏して御礼申し上げす。 来春の美登利会は、4月12日開催予定で準備を進めます。これからも、初代と二代目の遺志と教えをしっかり守って、一生懸命精進してまいりますので、末永くご贔屓いただきますよう伏してお願い申し上げます。

第76回美登利会と三代目吉駒襲名リサイタルの舞台の様子はコチラでご覧になれます
お稽古場は前橋市城東町四丁目です。詳しくはコチラをご覧ください


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1 コメント

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Unknown (アルフ)
2019-05-19 10:03:28
ヒゲクマさんのブログを見ると前橋で暮らした
子どもの頃が懐かしくよみがえります。

実は、私の父と母方の祖父も勢多農に勤めておりました。
長男だった父は終戦直後の数年間で家を継ぐことになり、教員を辞めましたが、生徒さんと尾瀬にハイキングに行った話などを晩年よくしておりました。

新米のまま数年で辞めてしまったから教える方はビミョ〜
だったかもしれませんね。
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