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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

観客論

2008-12-15 | 雑感
 ピランデリロの「山の巨人たち」では、観客に見放された劇団員達は山奥への遁走を余儀なくされた。登場人物のコトローネは言う。「芝居は観客に理解されない」と。
 大衆とはなんだろう。観客とはなんだろう。

 12月6日の毎日新聞夕刊での役者梅沢富美男のインタビュー。
 「ピンスポットの当たった役者がとうとうとこむつかしいせりふを語る、気持ちいいけど、それは単なる自己満足で。毎日、お客さまの色は違う。泣かせてくれよ、とか笑わせてくれよ、とか。それを見極める。いい芝居だったね、と言われると、次の日の入りは少ない。面白かったね、と言われると、次の日は満タンになる。お客さまは怖いんですよ」
 「兄に教えられた哲学がある。<10人客呼んだら、3人帰しな>。70%を満足させる芝居が大衆演劇だ、と。」
 私(筆者)がまだ若造だった昔、梅沢武生座長のこんな話を面白いなあと思って聞いた記憶がある。
 「お客というものは満腹してしまったらもう次の日は来てくれない。腹七分目くらいの芝居で帰っていただくのがコツだ。そうするとまた来てくれる」
 その日の客の入りがそのまま食い扶持にかかわる真剣勝負のなかで磨かれた知恵には瞠目させられる。

 同じく毎日新聞夕刊、12月9日での宮城聰(静岡県舞台芸術センター芸術総監督)のコラム。
 「・・・公立の劇場に専属劇団があり、その劇場を専属使用するというのは、考えてみればヨーロッパなどでは当たり前のことだ。パリのコメディフランセーズに見にいってみたら、その日は貸し小屋の日で、どこか別の団体がコメディフランセーズを賃借して上演していた、なんてことはあり得ようはずもない。(中略)
 ・・・従来の日本の公立劇場は劇場を賃貸する収入を大きな財源としてほそぼそと自主事業を回してきたわけだが、そういう環境では『文化政策』と呼ぶに値するものは現れないだろう。そこではシビルミニマムとしての文化が行政によって給付されるだけであって、文化によって積極的に社会を変革したり、地域のアイデンティティーを構築したりといった『文化政策』とはまるで別物である。」

 宮城氏はこれを初代芸術総監督だった鈴木忠志のはかりしれない努力によって実現したSPACこと静岡県舞台芸術センターの「真の公共劇場」としての在りようを紹介するなかで述べているのだが、この発言を先ほどの梅沢富美男の話と比較すると実に興味深い。
 もちろんこれはどちらが正論などということではなく、それぞれが属する世界観がまるで異なる次元にあるということなのだ。それぞれが正しく、真理であろう。
 ただ、これは批判ではなく(宮城さんは私も大好きな人である)感想として言うのだが、宮城氏の語る公共劇場の観客の姿が私には今ひとつ鮮明なものとして浮かんでこないのだ。
 劇場に訪れる年間何万人かの観客のほかに、何倍もの人々=演劇に無関心な住民が税金によって劇場と専属劇団の存続を賄っている。
 その存続を住民の何割くらいの人々が本当に支持しているのか。その支持を獲得するための行政との調整や議会への説明責任は、公共劇場に関わる者すべてに課せられた命題でもある。文化による社会変革とは何なのか、公共劇場によって地域のアイデンティティーはいかに構築され得るのか、芝居ははたして観客に理解されるのか・・・。

 かたや下町の小さな芝居小屋に娯楽を求めて訪れるおばちゃんやおじちゃんたちが乏しい小遣いの中から払う木戸銭によって日々の食い扶持を賄ってきた梅沢の言葉はしなやかで強い。
 これらを比べること自体が無意味なことかも知れないとは思いつつ、興味は尽きない。

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