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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

のぶカンタービレ!

2009-07-18 | 音楽
 まだ少年のような雰囲気を湛えた丸顔の青年は、部屋に集まった人々のおめでとうの拍手にやわらかな声で感謝の言葉を述べながら、独特のリズムで身体を揺すり始める。喜びの表現でもあるのだろう。お母さんのいつ子さんはそれを著書の中で「伸りんダンス」と名づけている。

 ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで日本人初の優勝という快挙を成し遂げた辻井伸行さんとお母様にお会いする機会があった。
 これは私にとっては役得というしかない僥倖なのだが、詳しいことは省略する。その功績を顕彰するための集まりに、お二人にお出でいただいたのだ。

 それにしても視覚障害というハンディを生まれながらに持ちながら一流といわれるピアニストになるための膨大な時間の積み重ねやその間に費やされた家族とそれを支える人々の労苦には呆然とするしかない。そのことをあるいはご本人たちは苦労とも思ってはいないのかも知れないけれど。
 伸行氏にとって、ピアノに触れ、そこから音楽を生み出すこと、自己表現することは、我々が息をすること、会話すること以上に自然なことなのだ。
 コンクールでも本番に強いといわれる伸行氏だが、それは何よりも彼自身がステージで演奏することを心から純粋に楽しみ喜んでいるからにほかならない。
 そしてそれを可能にしているのがご両親の力なのである。

 国際コンクールに参加するということがどういうことか、私にはまったく想像を絶するけれど、宿泊先ひとつとっても自分たちで手配しなければならないという。
 ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールの場合は財団がしっかりサポートしてくれて、ピアノのあるホームステイ先を手配してくれるのだそうだが、4年前に参加したショパン・コンクールでは、1ヶ月に及ぶ滞在期間中、ピアノ練習の可能なホテルの部屋を自費で確保したうえでピアノを搬入するなど、練習環境を自分たちで整えなければならなかった。そこに日本から指導者の先生を招くのである。その先生も、レッスンや大学での講義など自身のスケジュールを擲って駆け付けるのだ。
 しかしながら、そうした状況はコンクール参加者であれば誰にとっても大同小異である。まさに崖っぷちに立った鬼気迫る心理状態のもと優勝をめざしてしのぎを削るのだ。

 ピアノの音を1音でも聴けばその演奏者の心理状態がわかると伸行氏は言う。
 近年の国際コンクールの上位入賞者には中国、韓国をはじめとするアジア圏の出身者が圧倒的に多くなりつつある。彼らは国家の威信や家族の生活を背負い、死に物狂いで優勝をめざすのだ。その執念はただならぬものらしい。
 楽屋裏の様相も相当なものらしく、ただでさえ緊張しナーバスになっているわが子に対し、出番の1分前になってもあれこれ指示し、演奏後にも追い詰め、ダメ出しをうるさくいう親が多いという。
 「その点、僕の母はいつも励ましてくれるし、終わったあと失敗したところがあっても必ずよかったとほめてくれる。本当に感謝しています」と伸行氏。
 まさにこの親あってのこの子、なのだろう。お二人を見ていて感じるのが、超ポジティブ思考の強さである。
 それは、時には死を思わないではなかったほどの苦悩の時を突き抜けたところにある前向き思考なのだ。

 伸行氏が得意のとき見せるという「伸りんダンス」は、それを目にする者を幸せな気分に包み込む。彼の演奏によって繰り出されるピアノの音は人に生きる勇気を与えるだろう。
 いつ子さんの著書「のぶカンタービレ!」には、指揮者の佐渡裕氏の次の言葉が引用されている。
 「あの時瞬時に感じたのは、伸行くんが心底音を楽しんでいる感覚でした。初対面の時にいきなり『弾いてよ』と頼んだときもそうでした。彼の身体全体からキラキラした音が飛び出してきた。まるで伸行くんにだけスポットライトが当てられているようにすら感じたものです。演奏を聴きながら涙が止まらなかった。彼についている音楽の神様が姿を現したような瞬間でした」

 同時代に生きる者として、伸行氏がこれからもそんな奇跡の瞬間をつむぎ出し続けてくれることを心から願う。


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