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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

千秋楽

2010-02-04 | 演劇
 私が客演した劇団パラノイアエイジの睦月公演「幕末異聞 夢想敗軍記」が1月31日に千秋楽を迎えた。
 この間の経緯についてまめに記録しておけばそれなりの読み物になったとは思うのだけれど、生来のものぐさから結局正月以来この日記から遠ざかってしまった。(それだけ芝居のために使える時間はすべて注ぎ込んだということなのだ)
 11月22日の顔合わせから足掛け3か月、1年の6分の1以上をともに過ごした「仲間たち」とは深い絆が生まれたように思う。楽しい日々であった。
 残念だったのは、楽日の翌日に午前中から会議が設定されていたため、深夜からの打ち上げにほんの少ししか顔を出せなかったことか。もっともっと語り合いたいことがあったという悔いが残る。

 とはいえ、最初の頃はほとんど自分の子ども世代といってよい若いメンバーとどう接したらいいのか手探りの状態でもあった。もっともそんなことは日常生活のなかでいくらでも経験することだ。会社だろうが、商店街だろうが、あらゆる組織は多種多様な人の集合体だ。それをいかに機能させていくかというのは、あらゆる社会の普遍的課題だろう。演劇の効用はそうした課題にどう向き合うかというシミュレーションにもなり得るということだ。
 そしてその課題を劇団主宰で演出の佐藤氏は見事にクリアした。オーディション参加の大半の役者が殺陣にも和服の着付けにも所作にも素人同然であったのをそれなりの見え方に仕立てていくある種強引ともいえる力業には目を瞠らされる。
 結果、この舞台を観た人は幸運、見損なった人には「ザンネンでしたネ」と胸を張っていえる作品になったのではないだろうか。

 もっともこの芝居は私が普段接することの多い斬新なスタイルのアート作品でもなければ、社会的課題を浮き彫りにするような芸術作品でもない。あくまで娯楽活劇であることを謳った時代劇なのだが、そこには日本人の心性に根底から訴えかけるような何かがある。
 このことについてはいつかちゃんと考察してみたいと思うのだが、掛け値なしに終演後、号泣しながら帰っていったお客様が何人もいたし、多くの観客が涙をこらえたことだろう。
 私も出番の終わった楽屋のモニターで舞台の様子を見ながら、毎回胸を熱くしたものだ。こんな経験は初めてである。私の30年来の友人も開口一番「新撰組ってやっぱりいいよねえ」と叫んでいたが、こうしたことは日本人論を考えるうえで興味深い視点を与えてくれているような気がする。
 いつか機会があればちゃんと考えてみたいものだ。


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