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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

正月愚なり テレビ三昧

2010-01-03 | 日記
 「大三十日(おおみそか)愚なり元日猶愚なり」という正岡子規の句は明治34年、自身の肖像写真に題したものだそうだ。自嘲というほど深刻ではなく、むしろ興ずる心、と山本健吉編著の歳時記にはある。

 私も正月愚なり、とばかりこの数日は思い切りのんべんだらりと興じながらテレビばかり観ている。
 これは年末のことだが、マイケル・ジャクソンの特集番組を立て続けに観た。
 最後の10年はスキャンダルにまみれた観があり、音楽的にも「デンジャラス以降はまるでマンガ」などという酷評に代表されるように評価されることのなかったMJだが、死後、それがまるで一変したようであるのには、何とも言葉がない。

 番組では、1997年のミュンヘンでのライブが見ごたえがあった。時にあざといほどの演出も垣間見えるけれど、エンターテインメントとしての完成度は群を抜いている。
 同じ日、紅白歌合戦でスマップの面々がMJ追悼ということで歌とダンスを披露していたが、彼我のレベルの違いという以上に、何とも言葉がない。

 夜半過ぎ、元日になってのBS民放で小林克也の「ベストヒットUSA」を観た。やはりマイケル・ジャクソンの特集であるが、こちらは小林克也の薀蓄が至るところに入って私のような素人には勉強になる。
 子ども時代からスターとなったマイケルだが、「ビリージーン」以前はMTVで黒人のミュージックビデオが放映されたことがなかったという事実や、ミュージックマガジンの編集者が面と向かって「黒人が表紙では雑誌が売れない」と高言した話など、日本人にはにわかに実感として信じがたい話だが、彼はそうした社会の差別に対し、ある種の憎悪を内心に秘めながら戦ってきたのである。
 日本人のエンターテインメントには社会性や文化的背景を抜きに輸入したものが多いように思えてならないことがある。だから薄っぺらに見えてしまうのだ。

 同じく元日、やはりテレビで、野村芳太郎監督、橋本忍・山田洋次共同脚本の映画「砂の器」を観る。ああ、やってるんだと何となく観始めたのだが、例の親子の道行きの場面ではやっぱり泣かされてしまった。
 よく知られているようにこれらの場面には台詞がない。まさに映像の力というしかないのだが、よく観ていると、チャップリンの「キッド」をはじめ、涙腺を刺激する映画の公式が多く引用されているようにも思える。
 映画評論家の淀川長治氏だったか、この場面を、丹波哲郎演じる刑事の「語り」を太夫として、この親子の場を文楽人形が演じる道行になぞらえていたが、今回あらためてそうした構造がよく感得されたように思う。

 周知のようにこれはまさに脚本家・橋本忍の功績である。
 そんなことを思い出して、村井淳志著「脚本家・橋本忍の世界」(集英社新書)のその部分を再読した。
 橋本忍はもちろん松本清張の原作に忠実に脚色したわけではまったくない。
 村井氏は次のように書いている。
 「なにせ、映画に感動して松本清張の原作を読んでみると、あまりのつまらなさに愕然とするのだ。(中略)とにかく話がゴチャゴチャで、殺人方法はSFじみていて嘘臭いし、人物描写が類型的で押しつけがましい。ところが橋本忍の脚本は、そうした原作の問題点をすべて殺ぎ落とし、原作のよい点だけを、極限まで拡大したのだ。」

 橋本忍は、原作にあるわずか2行ほどの記述「福井県の田舎を去ってからどうやってこの親子二人が島根県までたどり着いたかは、この親子二人にしかわからない」を拡大してあの名シーンを書き上げたのだが、詳しくはこの本を読んでいただくとして、小説と映画のシナリオの違いについて知り尽くしていたということだろう。

 さて、この本を読んでいるうちに、ふと思い立って、橋本忍の師匠であった伊丹万作に関連した佐藤忠男の著作「伊丹万作『演技指導論草案』精読」(岩波現代文庫)を本棚から取り出して拾い読みした。
 これは映画監督・伊丹万作が1940年に書いた草案をもとにその背景や解説を加えたものだが、この演技指導論は今でも映画監督と俳優との相互の関わり方について書かれた最高度に実践的な優れた文章である。
 その内容は映画にとどまらず演劇や一般の社会生活においても援用可能な示唆に満ちている。
 演出家はもちろん、俳優にとっても必読の一冊だろうと思う。


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