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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

二十年後

2011-01-30 | 雑感
 O・ヘンリーの有名な短篇小説に「二十年後」という作品がある。
 二人の青年が、ニューヨークの街角で20年後のこの日、この時刻に再会しようと約束して別れる。一人は一旗あげるために西部に旅立ち、片やそのままニューヨークに残る。
 20年後、二人はそれぞれ警察官とお尋ね者の悪党になっていた、という話だ。

 20年という月日はそれほどの変化をもたらす時間の長さなのだろうか。
 時間という感覚はそれこそ千差万別、時と場合によって実に不思議な変容をみせてくれるものだ。同じ時代に起こった出来事が、つい最近のことのようにも、大昔の事件のようにも思えてしまう。

 阪神淡路大震災は平成7年1月の出来事で、同じ年の3月には例の地下鉄サリン事件も起きている。あれから16年の歳月が過ぎたわけだが、関わりの深い人々にとってはつい昨日の出来事のように忘れがたいものであるに違いない。一方で、時の流れとともに多くの人がその教訓を忘れるという風化現象が懸念されてもいるのだ。

 村上春樹の「ノルウェイの森」が映画化されて話題になっている。単行本は累計1千万部ともいわれるほどの大ベストセラーで、文庫本も映画化に伴って100万部を超える売れ行きという。
 そのせいかそれほど昔のものという気がしないのだが、作品が書かれたのは今から24年も前のことだし、小説の中で回想される出来事の多くは40年前の1970年前後のことなのである。
 三島由紀夫の自決事件のあった年でもある。ビートルズはその前年に解散していたが、浅間山荘事件の起こる前で、まだ学生運動の余韻は十分に残っていた。
 当時、高校生だった私は太宰治を愛読していたが、太宰はその22年前の1948年に亡くなっている。自分の生まれる前のことでもあり、その太宰の死を私は遠い昔のことと感じていたと思う。

 私が生まれた1950年代、そのわずか10年足らず前に日本は太平洋戦争の渦中にあったのだが、私自身は親世代から戦争の話を聞きながらも自分の身の回りの日常に戦争の惨禍を感じることはなく、のっぺりとした平和のなかにあった。
 今からほぼ70年前にその戦争は始まり、さらにその70年前、日本は明治維新の最中にあった。
 私が生まれて50数年が過ぎてしまったが、私の生まれた年の50年前は日露戦争勃発前でチェーホフもトルストイも森鴎外も生きていたのだ。実に不思議な感覚に捉われるではないか。

 私が住む今の町に引っ越してきたのは12年ほど前なのだが、今近所では大手スーパーマーケットの解体工事が進み、マンションに建て替わるという。中学校は廃校になり、大手自動車メーカーの販売所兼整備工場の解体も始まった。
 日々少しずつ進め町の変化のなかではつい見過ごしてしまいがちだが、今の町の様子を10年前と比べてみたらあまりの変貌ぶりに驚いてしまうに違いない。
 わずか10年間ですらそうなのだ。
 この100年の時間の積み重ねが私たちにもたらしたものの大きさや重さを思うとき、粛然とした気持ちにならざるを得ない。
 多くの錯誤や錯覚、フィクションによる加工や変容を幾層にも塗り重ねながらも、100年前と現在の時間はしっかりと結ばれているのである。

 今から20年後、100年後の世界はどのように変化していることだろう。


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