seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

創造的都市

2009-02-04 | 文化政策
 1月30日、縁あって文化庁長官表彰(文化芸術創造都市部門)記念シンポジウム「創造性をはぐくむ都市へ」を聴講した。会場は国立新美術館講堂。
 この表彰制度は、近年、文化芸術の持つ創造性を活かした産業振興や都市再生の取り組みが、諸外国をはじめ、わが国においても大きな成果を上げていることに鑑み、そうした地方自治体の取り組みを推進するために平成19年度から創設されたもの。
 シンポジウムは、文化芸術の持つ創造性に着目した都市のあり方について討論を行うとともに、アジアをはじめとした国内外の諸都市間での交流・連携の可能性を探るというものである。

 青木保長官のコーディネートのもと建築家の安藤忠雄氏をはじめ、劇作家・演出家の平田オリザ氏、わが国で最初に「創造都市」論を提唱したと言われる大阪市立大学大学院教授の佐々木雅幸氏、「にしすがも創造舎」で活動するNPO法人アートネットワーク・ジャパンの蓮池代表、現代美術家で東北芸術工科大学副学長の宮島達男氏らがパネル・ディスカッションを行った。
 創造都市論やその事例についてはこれまですでに著作を読んだり見聞きしていることが多いので新味はなかったのだが、パネリストは誰もが手馴れた語り手で聴いている者を厭きさせない。
 興味深かったのは、アメリカのオバマ大統領が、人々の創造性を高める教育に文化芸術を活用するなど、環境と文化を重視した政策を積極的に展開しようとしていると紹介されたことである。
 そのオバマ政権がモデルとしているのが英国で、アーツカウンシルの主導のもと芸術家等を学校に派遣し、子どもたちの創造的な能力を養うだけでなく、学校のカリキュラムや教育のあり方そのものをクリエイティブなものに変革することで、生徒たちのコミュニケーション能力や学習態度が向上したと言われている。
 翻ってわが国では「ゆとり教育」責任論が喧しく、学校への芸術家の派遣などとんでもないという風潮であり、事の本質や戦略を欠いた教育論がまかりとおっていると思えなくもない。
 平田氏が教鞭をとる大学の医学部では演劇が必修になっているという話も面白かったが、宮島氏は芸術家を育成する大学では、学生のうち1%の天才が生まれれば大成功で、残る99%は結局芸術家にはなれないという話題で問題提起した。
 毎年多くの美術大学、音楽大学から卒業生が輩出されるが、そうした人材はどのように活動しているのだろう。そうした数多くの専門的な芸術教育を受けた人々をうまく活用することが創造都市には求められているのではないか。
 今、雇用のミスマッチが話題となっている。多くの失業者が職を求めている一方、介護をはじめとする福祉現場では恒常的な人手不足にあえいでいる。
 無駄な公共工事に多額の財源を投入するのではなく、福祉に投資する方がはるかに波及効果が大きいと昔から論じられている事なのに一向にそうならないのは何故なのか。
 創造都市論的には文化政策にこそ投資して、芸術家を雇用あるいは活用すべきなのだろうが、さてさて、そこで気になるのが、アートや芸術はそもそも何かのためにあるのではなく、芸術そのものが目的の筈ではないかという議論である。
 たしかに最近の文化政策のパラダイムの拡大論は、芸術の領域をこれまでになく大きな視野で捉えようとしている。
 そうすることで資金調達の理由付けがしやすくなるという面もあるだろうし、自治体は税を負担する市民への説得がしやすくなる。
 しかし、そこで何か大事なものが失われるなら本末転倒という意見は正論であろう。肯かざるを得ない。行政の謳い文句に「文化による賑わいの創出」などと書いてあるのを見るとたしかにぞっとしてしまうけれど、実はいま私の考えはアート領域拡大論に傾きつつある。
 要はアーティストの目的意識が他領域との接触やコラボレーションとも合致している限り、それはまさしくアートなのだと言えるのではないか。
 相当に言葉足らずであることは十分に自覚しつつ、そう思うのだ。これについてはまた別の機会に考えてみたい。