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ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
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犬養毅と憲政の終わり

2020-12-13 23:00:48 | 日記


今月の8日、真珠湾攻撃による太平洋戦争勃発の日ということで、このブログで、ひさびさに近現代史記事を書きました。
そこでは十月事件のことを書きましたが……こうして軍部の暴走で時局が緊迫するなか、政界でも大きな地殻変動が起きていました。

満州事変後、その処置をめぐる混乱の帰結として、犬養毅が首相となります。

今日12月13日は、その犬養政権が誕生した日なのです。

――ということで、今回は、8日の記事の続編として、犬養政権について書いてみようと思います。


犬養毅は、第一回の衆議院議員選挙で当選し、それからずっと議員であり続けた人で、尾崎行雄とともに「憲政の神様」と呼ばれました。

その犬養がいよいよ首相となったのが、昭和6年の12月13日。

これまで書いてきたように、この頃は昭和史の大きな転換期でした。

満州事変の直後であり、後から見れば、大日本帝国が崩壊にむかっていく、その終わりのはじまりともいえます。
当時の政治家たちも――終わりのはじまりとまで思っていたかどうかはわかりませんが――相当な危機感を持っていました。

満州事変勃発当時の若槻政権で内務大臣を務めていた安達謙蔵も、そんな一人です。

内務大臣という立場にあった彼は、十月事件に関してもいちはやくその概要をつかんでいました。そして、その詳細を知って、もはや若槻政権では現下の情勢に対処不能と判断。この危機を乗り切るべく、“協力内閣”樹立にむけて運動します。
当時の二大政党である民政党と政友会の双方が協力して作る内閣……これによって、困難な状況を打開しようというわけです。

しかし、皮肉なことに、この協力内閣運動が政権内部に亀裂を生じさせます。

若槻首相は賛成だったようですが、閣僚の中から強固な反対の声があがりました。
それでも安達はあくまで協力内閣構想を推し進めようとしますが、ついには若槻から辞任を要請される事態に。しかし安達はそれを拒否し、閣内不一致によって若槻政権は空中分解。そうして、政友会の犬養毅が総理大臣となるのです。

結果として、半年後に起きる5.15事件で犬養は殺害され、これが政党政治の終焉とされます。

犬養毅が、第一回の衆議院選挙で当選してから、首相にまで上り詰め、凶弾に倒れた――これは、単に政党政治の終焉というばかりでなく、もっと大きな何かがここで終わってしまったように私には思えます。

その点については、いずれ5.15事件について書くときもあろうかと思うのでそこにゆずりますが……
ともあれ、犬養政権の誕生がこういう経緯によるものだったということは、その後の日本の行く末を暗示しているようにも思われるのです。

安達謙蔵の協力内閣構想は、はたして有効だったのか。

正直なところ、疑問です。

政友会、民政党の双方が協力する内閣というのはその後いくつかできています。中間内閣とか挙国一致内閣などと呼ばれますが……しかし、ではそれが局面打開につながったかというとそうではありません。

むしろそれは、政治の限界をあきらかにしました。
政治の側がどうであろうと、そこで決定されたことに軍が従わなければ意味がない……という限界が、これら“協力内閣”において露呈してくるのです。
そういう意味では、問題は政党政治云々ではないともいえます。
仮に政党政治がしっかり機能していたとしても、軍の暴走は止められなかったのかもしれません。


しかし――そうはいってもやはり、議会のあり方と軍の暴走との関係に注目しないわけにはいきません。
両者には、負の連鎖と呼ぶべき関係があります。

政党政治というものがいかに日本政治に定着していなかったかは、5.15事件とその後の動きで顕在化することになりますが……そもそも、政党政治に対する幻滅が昭和六年以降に続発した一連の事件につながっていることは疑いようがありません。

端的にいって、当時の国民は政党政治に嫌気がさしていたのです。

理由の一つは、二大政党にそれほどの差異がなかったということが挙げられるでしょう。
戦前の日本では実質的に革新政党というものが存在しえなかったために、二大政党は明確な対立軸を持ちませんでした。子細にみれば、政友会は積極財政・対外強硬主義で、民政党は緊縮財政・国際協調主義……といった傾向の違いはありますが、それらはいわば各論の違いであり、根本的な差異はないわけです。
そのこともあって、この二つの政党は政策論争を戦わせるのではなく、スキャンダル合戦で相手を貶めるといったことを繰り返していました。国会内で乱闘騒ぎになったこともあります。政党政治の時代に日本の国会で行われていたのは、議論や論争ではなく、政争、抗争でした。そのていたらくに、国民のあいだで政党政治に対する嫌悪感が醸成されていったようです。


犬養毅に話を戻すと、彼もまた、そんな不毛な政党間抗争に身をやつした一人でした。

日本政治にとって致命的な問題となったのが“統帥権”なるものの不可侵性ですが、ほかならぬ犬養毅もまた、ロンドン海軍軍縮条約でもちあがった統帥権干犯問題を民政党攻撃に利用していたのです。
このあたりに、限界があったんだろうと私は思ってます。
第一回の選挙から当選し続けた「憲政の神様」――彼は近代日本議会政治の体現者であり、それゆえに、その限界を体現してもいたのでしょう。
もちろん野党が与党を批判するのは当然ですが、なんでもかんでも与党批判に利用すればいいというものではないだろうと。政党政治そのものが危機にさらされている状況があるなら、与野党の垣根を超えてそれを防ぐべきだったんではないか。それができていれば、国民が政治家を見る目もちがったものになっていたのではないか……

先月の議会開設130周年という記事でも書きましたが、この国では130年間、まともな政党政治が行われたことは一度もないと私は思っています。そういう土壌を作りうるわずかな期間が戦前にあったわけですが、犬養内閣はその終幕ということになりました。

私が思うに、この国でまともな政党政治が育っていくのを阻害した要素は、敗戦と民主化を経ても根絶はされず、現代にいたるまで根強く残されています。
ここをどうにしないといけない。
そのためには、政治の側が理念を持つこと、そしてそれによって、一般国民と政治との距離を縮めること――といったところでしょうか。100年以上にわたって形成されたあり方を変えるのは難しいことですが……




主の祈りを振り返る

2020-12-10 20:22:46 | 過去記事

バーブラ・ストライサンド「主の祈り」(Barbra Streisand, The Lord's Prayer)

今回は、拙著『ホテル・カリフォルニアの殺人』ゆかりの歌シリーズとして、バーブラ・ストライサンドの「主の祈り」について書きます。ともすれば忘れがちですが、このブログは本来プロモー......


過去記事です。

「主の祈り」はとても有名な曲なので、いろんな人が歌っています。
YouTubeで検索したところ動画がいくつか出てきたので、ひとつ聴き比べてみましょう。


まずは、シャルロット・チャーチさん。
「主の祈り」の前の記事でも登場しました。この頃は、まだクラシック路線。

Charlotte Church - The Lord's Prayer (Live From Jerusalem 2001)

ジャッキー・エヴァンコさん。
やや、シャルロット・チャーチと立ち位置が似てるでしょうか。

Jackie Evancho - The Lord's Prayer (from Dream With Me In Concert)

シンデレラストーリーで一世を風靡したスーザン・ボイルさん。

Susan Boyle - The Lord's Prayer (Official Audio)

トリは、大御所アンドレア・ボチェッリさん。

Andrea Bocelli - The Lord's Prayer - Live From The Kodak Theatre, USA / 2009



十月事件と長勇

2020-12-08 18:53:39 | 日記


今日は12月8日。

太平洋戦争開戦の日です。

このブログではと時々近現代史に関する記事を書いていますが、この日付にあわせて、今回はひさびさに近現代史記事でいきましょう。
このカテゴリーでは、以前、満州事変について書きましたが……その満州事変と呼応した、日本国内のクーデター未遂事件、いわゆる“十月事件”に関与していた、長勇という人物について書いてみようと思います。

長勇は、橋本欣五郎とともに桜会を結成したメンバーの一人です。
桜会とは、軍の内部で国家改造を目指す人たちが作った結社。三月事件、十月事件では中心的な役割を果たし、長勇もその両方に関与していました。
十月事件においては、長は閣僚を皆殺しにする役割を担っていたといいます。
実際には、十月事件は未遂に終わったわけですが、三月事件のときと同様、その関係者に厳しい処分はくだされず……長もまた、その後順調に階級を上げています。

この人は、沖縄戦の記録にもよく名前が出てきます。

沖縄防衛を担った第32軍の参謀長として、沖縄戦に参加しているのです。

沖縄戦においては、持久戦方針に反対し、夜襲を立案したことで知られています。
すなわち、夜の闇に乗じて、米軍に奇襲をかけるわけです。
この夜襲作戦は、当初こそそれなりに成果をあげたようですが、繰り返しているうちに、当然ながら相手も対策をとるようになります。結果、次第にあまり効果がなくなっていく。やがては、逆に米軍側が夜襲部隊を待ち伏せして返り討ちにするようにもなったといいます。こうして、夜襲作戦は兵力を消耗させていくことになったのです。それは結果として、司令官の立てた持久戦方針(その是非は別として)の遂行を困難にしました。

上層部の決めたことに従わずに勝手に行動する。半ば願望まじりの甘い見通しに立った作戦を立てて、いたずらに戦力を消耗する……

これはまさに、大日本帝国の軍隊が抱えていた病弊を象徴しているように私には思えます。

戦前の日本軍というと、上のいうことには絶対服従の組織と思われるかもしれませんが、それは最末端の兵士についていえることであって、中堅以上の将校についてはまったくあてはまりません。それゆえに、上層部が立てた方針を貫徹することができず、それはさらに、政府が軍をコントロールできないということにつながっていくのです。

満州事変でも、その後の盧溝橋事件でも、軍の最上層部は基本的に不拡大方針をとっていました。ところが、現地の部隊がその方針に従わず勝手に戦線を拡大させてしまう。軍の上層部も、それに引きずられてしまう。この状況では、政府の側も、有効な手を打てません。これまで何度も書いてきたことですが、戦前の日本はそもそも組織統治に致命的な問題があったのです。

愛国心を声高に叫ぶ者たちが、実際には国を滅亡に引きずり込んでいった――という側面が、そこにあります。

そうした主張をもつ勢力には、絶対に権力をもたせてはいけないのです。






水原弘「黒い花びら」

2020-12-06 18:58:23 | 音楽批評


今回は、音楽記事です。

このカテゴリーでは、最近昭和歌謡を中心に取り上げていて、前回は守屋浩の「僕は泣いちっち」という歌を紹介しました。
その守屋浩は、当時“3ひろし”と呼ばれたアーティストの一人でした。
その3人は、守屋浩、井上博、そして、かまやつひろし。

しかし――ここにもう一人の“ひろし”がいます。

それが、水原弘。

ということで、今回はあこの水原弘のデビュー曲である「黒い花びら」という歌を紹介します。



“3ひろし”とは、守屋、井上、かまやつだと書きましたが――

実は、もともと“3ひろし”といえば、井上博、かまやつひろし、水原弘を指していたのです。

このなかで、水原だけ少し毛並みが違うということで、いつしか守屋浩がとって代わることになりました。
その違いは、実際に歌を聴いてみれば如実に感じられると思います。
井上博は一時ドリフターズにいた人(といっても、後のお笑い路線時代とは違いますが……)で、かまやつひろしの所属していたスパイダーズも、どちらかといえば軽妙な感じでしょう。少し影のある感じの水原よりも「僕は泣いちっち」と歌う守屋浩のほうがそちら寄りと認識されるのは自然の成り行きともいえます。

しかしながら、守屋と水原は同じ“ロカビリー系”と認知されていて、二人の経歴は微妙に交錯する部分もあります。

たとえば、デビューの経緯。
以前書いたように、守屋浩デビューの舞台となったのは日劇ウェスタン・カーニバルですが、そのウェスタン・カーニバル開催に関与し“マダム・ロカビリー”と呼ばれた渡辺美佐というプロモーターがいて、水原弘は、このマダム・ロカビリーにスカウトされて、世に出たのです。
こういう経緯があるので、守屋も水原もメジャーデビュー後の音楽はロカビリーとはいいがたいものであるにもかかわらず、“ロカビリー系”といわれているわけです。



「黒い花びら」は、水原弘のデビュー曲です。
また、その1959年に行われた第一回レコード大賞を受賞した曲でもあります。

ちなみにこのレコード大賞というのは、古賀政男と服部良一が創設した賞。
このブログで紹介してきたように、二人とも昭和前半を代表する作曲家です。彼らの手によってつくられたレコード大賞の、その一回目の大賞ということで、「黒い花びら」は記念されます。
また、デビュー曲でレコード大賞を受賞したアーティストは現在に至るまで水原弘ただ一人しかいないということで、そういう意味でも伝説を作りました。

作詞・永六輔、作曲・中村八大。
この組み合わせは、あの坂本九「上を向いて歩こう」と同じです。
しかしながら、雰囲気は「上を向いて歩こう」とはだいぶ違っているでしょう。
守屋浩「僕は泣いちっち」は同じ年の発表ですが、ちっち言葉のユーモアとは真反対に、どこかダークな雰囲気をたたえた曲になっています。
先述したとおり、そのダークな感じゆえに、ちょっとイメージが違うということで、“3ひろし”からはずれることにもなったわけです。



予断ながら、この1959年という年には、「黒い○○」というのがはやりました。
映画「黒い稲妻」がヒットし、松本清張「黒い画集」がベストセラーに……そして「黒い花びら」です。
偶然の符合ですが、これらは水原弘のその後を奇妙に暗示しているようでもあります。
デビュー曲は大ヒットしたわけですが、その後の水原は金銭的成功によって身を持ち崩し、ギャンブルとアルコールに溺れていきます。やがて反社会勢力とかかわりを持ち、芸能界から姿を消すという……その経歴を見ていると、「黒い花びら散った」という歌詞が思い起こされるのです。

実際には、黒い花というものは存在しません。
黒く見える花はありますが、それも藍色などが極端に濃くなったものなんだそうです。そういう意味では、黒い花びらというのはそもそも虚像なのです。
その虚像性もふくめて、水原弘という人は日本歌謡界におけるダークヒーローといえます。
第一回のレコード大賞は、その当時の音楽業界における保守層から強い抵抗を受けて開催が危ぶまれたともいいますが、そこで登場したのがこの水原弘だったということは、非常に示唆的にも思えるのです。それから時が流れるにつれて、賞レースの背後で大人の事情が強く作用しているという噂が絶えないことを思えばなおさら……



中村哲さんの死から一年

2020-12-04 22:26:03 | 過去記事

中村哲さんを悼んで

今日、中村哲さんが亡くなったというニュースがありました。中村さんは、NGO「ペシャワール会」の代表として、アフガニスタンで井戸を整備するなどの事業をされていた医師です。現地での活動......



ちょうど一年前の記事です。

一年前のこの日、アフガニスタンで緑化事業にあたっていた中村哲さんが武装勢力の襲撃で亡くなりました。

その翌日、来日していたU2のボノが、中村哲さんを讃え、Badという曲の中でサイモン&ガーファンクルの「ボクサー」を引用したという話を、このブログで紹介しました。

それから一年。

果たしてこの国は、彼の偉業を正当に評価してきたでしょうか……

件のU2のライブでは、「ボクサー」を引用したBadに続いて、キング牧師を讃える Pride (In the Name of Love)が歌われました。その歌のなかに、こんな詞があります。

  とうとう彼らはあなたの命を奪った
  だが あなたの魂を奪うことはできなかった

たとえ凶弾が命を奪ったとしても、その遺志は残されたものに受け継がれていく……そうあるべきでしょう。この国では、それが行われているのか。自戒も込めて、考えさせられるところです。