大刀洗平和記念館にいってきました。
大刀洗は、私の住む小郡市の隣町。
かつて陸軍の飛行場があった場所で、その関連で平和記念館があります。
いつかいってみようと思っていたんですが、今回ちょっとしたきっかけがあって、それが実現しました。
そのきっかけとは、十八試局地戦闘機“震電”。
このあいだ紹介した映画『ゴジラ
-0.1』に登場するあの震電……そのレプリカが大刀洗平和記念館に展示されています。
そして、この実物大模型こそが、『ゴジラ
-0.1』の撮影に使用されたものなのです。
これについてはちょっと前にウェブ記事で見ていたんですが、そのときは情報解禁前で、いつ製作されたのかは不明みたいなことが書かれていました。しかし、最近情報解禁となり、これが『ゴジラ
-01』の撮影に使用されたものであることがあきらかにされています。隣町にそれがあるというのも奇縁、これは見にいかないわけにはいかないでしょう。
(※館内の展示物は基本的に撮影禁止。ただし、飛行機は撮影可)
しかしながら、この大刀洗平和記念館というところは、ただ物見遊山で楽しく見学できるようなところでもありません。
やはり戦争関連の展示施設であり……また、大刀洗陸軍飛行場というのは、特攻とも深いかかわりがあるところなのです。九州で特攻の拠点としてよく知られる知覧も、ここにあった飛行学校の分校だったんだとか。また、大刀洗から直接出撃した特攻隊もあったといいます。
平和記念館に展示されている飛行機は、震電以外に二機あります。
震電はレプリカですが、ほかの二機はどちらも実物。
そのうちの一機が、零式戦闘機――いわゆるゼロ戦の「三二型」という機種。同型で現存する機体はこの一機だけということです。
そしてもう一機が、九七式戦闘機。
特攻そのものには失敗して長らく海中に没していたものを引き揚げ、こうして展示しているということです。
この九七式の展示に、意外な人物がかかわってきます。
それは、故・松本零士先生。
この機体に装着されているタイヤは、松本零士先生が寄贈したものだそうです。
先生は、戦史漫画を描く関係でそうした史料を多く所蔵しており、そのなかに九七式の車輪もありました。戦争の悲惨を語り継ぐということを使命としていた松本先生は、九七式修復展示の話を聞いてその車輪を寄贈したのです。
そして、松本零士先生は、この大刀洗陸軍飛行場と浅からぬ縁がありました。
松本先生は福岡県久留米市の出身ですが、それは父親である松本強氏が大刀洗陸軍飛行学校で教官をやっていたからということなのです。
上官から特攻に行かせるパイロットの名前に〇をつけて提出しろと命じられた強氏は、自分の名前だけに〇をつけて提出したといいます。しかしそれは突き返され、泣く泣く特攻者のリストを作ったとか。戦後になって特攻で戦死したパイロットの遺族が話を聞きに来たりすることもあり……そういった経験があって、松本零士先生は戦争の悲惨というものを身に染みて感じていました。松本零士作品は、ともすれば戦争賛美、特攻賛美のようにとられることもありますが、決してそうではないのです。
ここで、特攻ということにもちょっと書いておきましょう。
特攻を決して賛美してはならないというのは前にもどこかで書いたと思いますが、これは単に倫理上の問題というだけではありません。
純粋に、軍事・戦略という観点からも、特攻というのはまったく間違っているのです。
日本という国は、資源に乏しいわけです。資源に乏しいからこそ、現有する資源はなるべく損耗しないようにしなければいけません。車両や艦船・飛行機の類は、なるべく無駄にしない。兵員も、極力死なせない、助かるものならなるべく助ける――そんなふうにして、限られた資源を大事にしなければいけなかったのです。しかし、特攻というのはその真逆。使い捨て思想の極致です。そして、この使い捨て思想こそが大日本帝国が敗戦にいたった大きな要因の一つともいわれています。
近代産業国家の総力戦というのは、再生産力の勝負であり、局地的な戦闘一つ一つでの勝敗にはさほど意味がない。戦闘による消耗とそこからの再生産を互いに繰り返していくうちに、資源力・生産力にまさるほうがじりじりと優勢になり、勝利する……この観点に立てば、特攻というのは、やればやるだけ自軍をより不利にしていく愚策にほかならないのです。特攻というかたちで戦死したパイロット個々人を貶めるつもりはありませんが、それを作戦として推し進めた人たちに関しては、度し難いといわざるをえないでしょう。
『ゴジラ
-0.1』でも特攻というのが作品全体を貫く大きなテーマとなっているわけですが、あの映画もやはりそれを賛美するというかたちにはなっていません。映画のキャッチコピーにもあるように「生きて、抗え」ということなのです。それは軍事・戦略とかいったこととはまた違うレベルの話でもあると思いますが、戦後もう80年近くとなり、ややもすれば戦争がロマンとして扱われるような感覚さえあるこの時代に新たなゴジラ作品は異を唱えているのではないか。そんな気もします。