デンマークの新聞がムハンマドと見られる人物をテロリストに擬した諷刺漫画を掲載、ムスリムの抗議に対して西欧各紙が過剰反応して次々に漫画を転載したことから、ムスリムの怒りがどんどん広がっている。最近ではベイルートとダマスカスのデンマークなどの公館が焼き討ちにあった(下記レバノンのデイリースター記事を参照)。
ベイルートの公館焼き討ちの際に、デンマーク大使館が位置する、アシュラフィエにあるマロン派の聖マロン教会にも累が及び、被害にあったという。これは、やりすぎだ。マロン派はカトリックに属しており、十字軍のときに手引きをしたりした過去はあるとはいえ、あくまでも中東伝来の典礼を持つ、中東土着のキリスト教の宗派である。典礼の仕方は西欧キリスト教会とは大きく異なり、むしろイスラームとの親和性が高い。今回の問題を「西欧帝国主義のオリエンタリズム」ととらえずに、「イスラーム対キリスト教」の対立図式に描かれやすい点は、宗派対立で内戦も行ったこともあるレバノンに典型的にみられる多宗派混交地域の危うさであるとはいえ、しかし、これは明らかに逸脱であり、愚かな行動というしかない。
ただ、しかし、暴力はいけないという一般論では、この件に対してどうしてムスリムがあれほどまでに怒るのかの本質と背景を見誤ることになる。逆にいえば、公館を焼き討ちにしてまで抗議する理由と道理がムスリムの側にあるということである。
西欧のメディアは「表現の自由」を前面に掲げる(産経新聞2月4日「イスラム諷刺漫画 各紙転載 欧州全土、騒動飛び火」参照)。不思議なことに今回、フランスのル・モンドやリベラシオン、スペインのエル・パイスのような左寄り新聞が率先して転載して回ったことである。これで、西欧の左派の多文化主義・寛容・博愛・平等の精神が実は底が浅かったことが浮き彫りになったともいえる。
憲法学の常識に照らせば、この場合「表現の自由」を主張することはナンセンスである。
そもそも表現の自由その他の自由権は、「他者の権利を侵害しない」ことが大前提になっている。ここで他者の権利とは、他者があるもの(信仰でも財物でもいい)を大切にする権利が当然含まれる。たとえば、「自由」だからといって、他人が所有している器物や他人の身体や生命を奪ったり、損傷させてはならない。もし、他者の権利を侵害してまでも自由が認められるというなら、簡単にいえば、テロや殺人にも自由があることになってしまう。
また、「表現であれば直接的には他者の財産や生命に危害を加えることはない」という反論も成り立たない。傷害罪という罪には、身体的な傷害だけではなく、精神的に障害を与えることが含まれる。自由権における自由とは、傷害罪に抵触しない自由である。
そう考えれば、まさに自由権を法思想として確立したはずの西欧のしかも左翼ともあろうものが、「自由」の前提条件を忘れて自由を振り回しているとすれば、末期症状というか、逆に狂っているとしか言いようがない。
イスラーム教においては、ムハンマドは神ではなく人間ではあるが、最後にして最大の預言者とされ、人間の中では特別で至高な存在と認識されている。しかも偶像崇拝禁止の戒律があるから(実はキリスト教やユダヤ教も聖書では偶像崇拝が禁止されている)、神はもちろんムハンマドをはじめとした預言者を絵に描くことはあってはならない。
そういう信仰や文化体系は、尊重されるべきであっても、その信仰や文化体系とはまったく異なる西欧キリスト教の人々が「西欧ではイエスの冒涜も許されるから」といって、ろくに知りもしないイスラームという他者の信仰体系にずかずかと入り込んで、他者の信仰を侵害し冒涜するとしたら、それは傷害罪に該当する明らかな刑事犯罪というべきものである。
西欧の人たちが「イエスを冒涜することは自由だ」というなら、イエスでやればよい。何も他者の信仰体系をネタに利用する必要はない。
ところが、最初にこの戯画を掲載したデンマークの右派大衆紙ユランズ・ポステンはイエスの諷刺画は掲載を拒否したという(Reuters, Wed Feb 8, 12:08 PM ET: Danish paper refused "offensive" Jesus cartoons)。何たる身勝手!
いわば「自分の妻をいかに愚妻といっても、他人にいわれるとむかつく」心理である。自分のものはいくらでも揶揄できるが、他者のものについては慎重になるべきなのである。
実際、ムスリム自身が神を茶化すことは皆無ではない。サウジのような原理主義がちがちの地域ならともかく、比較的リベラルで開放的なレバノン、トルコ、エジプトのムスリムなら神を茶化すことはある。レバノンで何度かそういう発言を耳にした。しかし、注意すべきなのは、たとえムスリムが茶化していたとしても、異教徒であるわれわれが与してはならないということだ。私は彼らが神を茶化したときに決して一緒に加わったりしなかった。もちろん、キリスト者の私にとって同じ神だからよさそうなものだが、契約概念が違うので、下手に雷同するわけにはいかない。
まして、中東のイスラームの人々にとってみれば、西欧キリスト教徒は、十字軍と帝国主義と二度にわたって自らを蹂躙してきた不義の侵略者なのである。
パレスチナのキリスト教家庭出身のエドワード・サイードが喝破したように、西欧が作り出してきた「支配されるべき野蛮人」のイメージとは、まさに西欧の中東観を原型にしているのであって、西欧と中東の憎悪関係はまさに積年のものである。
中東の人々の西欧に関する怨恨が解消され、怒りが解けていないにもかかわらず、加害者である西欧人が、中東のムスリムが至高のものだとして大切にしている対象を戯画によって茶化す。
これが、もし、中東を侵略したことがない台湾人あたりがやったことなら、ムスリムは怒っただろうが、ここまでの怒りにならなかっただろうし、またもしここまで怒ったとすれば台湾人側が「ムスリムも異文化である台湾人を理解すべきだ」ということは可能だっただろう。
しかし、よりによって、西欧人が「自由」を悪用して、再びムスリムを傷つける横暴を働いたのである。ムスリムが怒って当然であろう。
そういえば、湾岸UAEのアル・ハリージュ紙が「欧州にはホロコースト(ユダヤ人虐殺)の否定を禁じる法律がある。ならば、他宗教の侮辱を禁止する法律もつくるべきだ」と提案しているらしい(朝日新聞2月5日「デンマーク大使館放火、諷刺漫画にイスラム圏の抗議激化」参照)。
そのとおりである。
もしそれができないなら、西欧はユダヤ人に一方的に肩入れして、ムスリムをいくらでも侮辱してもいいと思っているだけだということになる。
しかも今回私が驚いたのは、西欧でこれまで移民、多文化主義、差異への権利といった問題については、寛容でリベラルな態度をとっていたはずの左派系メディアまでもが、戯画転載と「自由」の悪用の列に加わったことである。これにはあきれた。逆に、イラク戦争によって中東を武力で踏みにじってきた英米政府とその多くのメディアが逆に自制的で、戯画転載の暴挙を批判しているところが意味深長である。もちろん、米国にはこれ以上ムスリムを敵に回したくないという計算も働いたのだろうが、それ以上にイラク戦争の泥沼化から、何がしかの教訓を得たということもあるだろう。英国については、昨年のテロ事件が教訓となったと伝えられている(毎日新聞2月4日「英紙は不掲載 「責任が伴う」と社説で」;読売新聞2月4日「ムハンマド戯画問題、英外相が欧州各紙の転載を批判」;共同通信2月4日「預言者諷刺漫画「侮辱的」 米、冷静な対応呼び掛け」)。
願わくは、西欧のメディアや左派が、この問題を契機に、この問題を教訓として、異文化への尊重と理解を深めんことを。
問題の戯画については、 http://www.brusselsjournal.com/node/698 を参照。実際、これを見ると、異教徒である私も胸糞が悪くなった。西欧人の偏見と横暴とデリカシーのなさにはほんとうにむかつく。こんなものは諷刺とか揶揄に値しない。単なる異文化蔑視と破壊である。
それから、日本の報道で気になるのは、中東で問題の戯画は、ヨルダンで転載された以外はいっさい転載されていないようなことが書かれているが、私自身はレバノンのイスラーム系がやっているとみられる芸能ブログWALEGに1つだけ言及、紹介されているのを見た。「中東では紹介もタブー」式の報道も、実は「イスラームは偏狭」という偏見と思い込みで決め付けているようにしか思えない。
【ムハンマド諷刺画をめぐる主な動き】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060203-00000138-mai-int
毎日新聞 <ムハンマド諷刺画>「文明の衝突」の様相 背景に国際化 より(台湾蘋果日報2月6日付けで補足))
05年9月30日 デンマーク紙ユランズ・ポステンが12編の諷刺画を掲載
10月上旬 デンマークのイスラム教徒団体が抗議声明
06年1月5日 デンマークのムラー外相とムーサ・アラブ同盟事務局長が電話協議
1月10日 ノルウェーのキリスト教系誌マガジネットが諷刺画を掲載
26日 サウジアラビアが駐デンマーク大使を召還
29日 リビアが在デンマーク大使館を閉鎖
30日 パレスチナ自治区ガザで武装グループが欧州連合(EU)事務所を包囲、謝罪要求
31日 ユランズ・ポステン紙が釈明
2月1日 諷刺画転載の仏紙フランス・ソワールが編集局長を更迭
2日 パレスチナ武装勢力がドイツ人1名を拉致、のちに釈放;ノルウェーがヨルダン川西岸の代表部を閉鎖
~3日 ドイツ、フランスなど7カ国紙が諷刺画を掲載
3日 インドネシアのイスラーム過激派勢力がデンマーク大使館敷地に侵入し抗議活動;ラスムセン・デンマーク首相がイスラム教国11カ国の駐コペンハーゲン大使と会合
4日 シリア・ダマスカスでデンマークとノルウェー大使館前で抗議活動と放火
5日 レバノン・ベイルートのデンマーク大使館周辺で抗議活動と放火
参照記事(直リンクにしなかったのは、ヤフーのページは後日に消えるはずだし、デイリースターはURLが長く画面表示に問題が起こるため):
朝日新聞 2月3日 諷刺漫画掲載への同調広がる フランス
http://www.asahi.com/international/update/0203/004.html
一方、カトリック教会のリヨン大司教は2日、AFP通信に「イスラム教徒が受けた傷は理解できる」と発言。フランスの司教協議会も「表現の自由には個人の信仰への敬意が伴うべきだ」と表明した。
産経新聞 2月4日 イスラム諷刺漫画 各紙転載 欧州全土、騒動飛び火
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060204-00000009-san-int
欧州でドイツとフランス、イタリア、スペインに続き、オランダ、スイス、チェコの有力紙が転載。
仏紙ルモンドは社説で「民主主義では言論を取り締まることはできない」と訴え、イスラム教徒はムハンマドの漫画に衝撃を受けても致し方ないとの主張を展開した。
フランスのサルコジ内相は二日、テレビ番組で、検閲よりも諷刺の行き過ぎの方が許容できるとの見解を示し、仏紙の報道を支持した。ただ、仏紙フランス・ソワールでは騒動に火を注ぐ形となったことに内部で批判も起こり、編集長が一日、更迭された。
一方、独紙ウェルトは漫画に合わせて「欧米社会には冒涜(ぼうとく)する権利もある。イスラム教の世界には諷刺を理解する力はないのか。イスラム教徒の抗議は偽善だ」と主張、独政府は同紙の報道に「政府が介入すれば、言論の自由を阻害する」と、事態を静観する構えだ。
共同通信 2月4日 「謝罪あり得ない」 デンマーク首相
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060204-00000001-kyodo-int
欧州では「表現の自由」を掲げ、新聞が諷刺画を載せる動きが拡大、3日もフランスのリベラシオン紙やスペインのパイス紙が掲載した。
毎日新聞 2月4日 <ムハンマド諷刺画>英紙は不掲載 「責任が伴う」と社説で
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060204-00000022-mai-int
読売新聞 2月4日 ムハンマド戯画問題、英外相が欧州各紙の転載を批判
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060204-00000202-yom-int
共同通信 2月4日預言者諷刺漫画「侮辱的」 米、冷静な対応呼び掛け
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060204-00000046-kyodo-int
http://www.asahi.com/international/update/0205/001.html
朝日新聞 2月5日 デンマーク大使館放火、諷刺漫画にイスラム圏の抗議激化
中東のメディアは批判一色だ。アラブ首長国連邦紙ハリージュは3日付で「欧州にはホロコースト(ユダヤ人虐殺)の否定を禁じる法律がある。ならば、他宗教の侮辱を禁止する法律もつくるべきだ」と論じた。
一方、中東のキリスト教徒の間では、この問題が宗教間の争いに発展することを懸念する声も出ている。イラク北部キルクークにあるキリスト教会の大司教は、1月29日に地元の教会を狙って起きた連続爆弾テロの引き金も諷刺漫画問題だったとの見方を示した。ロイター通信に対し「我々は欧州で出版された漫画に何の責任もないはずだ」と嘆いた。
英左派系ガーディンの分析記事と関連リンク
The Guardian, Feb 6,2006, Comment, Cartoon conflicts
http://www.guardian.co.uk/comment/story/0,,1703368,00.html
ユランズ・ポステンはイエスの諷刺漫画は掲載拒否
Danish paper refused "offensive" Jesus cartoons
http://news.yahoo.com/news?tmpl=story&cid=2630&ncid=2630&e=13&u=/nm/20060208/wl_nm/religion_cartoons_denmark_jesus_dc_1
ベイルート公館焼き討ちについては、残念ながら当日記事収集を怠ったので、レバノン英字紙デイリースターしかURLを挙げられない。主な記事だけ。
The Daily Star, Feb 6- Politics - Violence plagues protest against cartoons of Prophet Mohammad(Rym Ghazal執筆の記事、リムちゃんは典型的なレバノン美人で愛想もよかった)
http://www.dailystar.com.lb/article.asp?edition_id=1&categ_id=2&article_id=21994
Daily Star, Feb 6- Politics - Violent protests draw ire of Achrafieh residents
http://www.dailystar.com.lb/article.asp?edition_id=1&categ_id=2&article_id=21993The
The Daily Star, Feb 6- Editorial - Failure to take precautions is a sign of serious incompetence
http://www.dailystar.com.lb/article.asp?edition_id=10&categ_id=17&article_id=21983
The Daily Star, Feb 7- Editorial - Action is urgently required if stability is to prevail in Lebanon
http://www.dailystar.com.lb/article.asp?edition_id=10&article_id=22005&categ_id=17
ベイルートの公館焼き討ちの際に、デンマーク大使館が位置する、アシュラフィエにあるマロン派の聖マロン教会にも累が及び、被害にあったという。これは、やりすぎだ。マロン派はカトリックに属しており、十字軍のときに手引きをしたりした過去はあるとはいえ、あくまでも中東伝来の典礼を持つ、中東土着のキリスト教の宗派である。典礼の仕方は西欧キリスト教会とは大きく異なり、むしろイスラームとの親和性が高い。今回の問題を「西欧帝国主義のオリエンタリズム」ととらえずに、「イスラーム対キリスト教」の対立図式に描かれやすい点は、宗派対立で内戦も行ったこともあるレバノンに典型的にみられる多宗派混交地域の危うさであるとはいえ、しかし、これは明らかに逸脱であり、愚かな行動というしかない。
ただ、しかし、暴力はいけないという一般論では、この件に対してどうしてムスリムがあれほどまでに怒るのかの本質と背景を見誤ることになる。逆にいえば、公館を焼き討ちにしてまで抗議する理由と道理がムスリムの側にあるということである。
西欧のメディアは「表現の自由」を前面に掲げる(産経新聞2月4日「イスラム諷刺漫画 各紙転載 欧州全土、騒動飛び火」参照)。不思議なことに今回、フランスのル・モンドやリベラシオン、スペインのエル・パイスのような左寄り新聞が率先して転載して回ったことである。これで、西欧の左派の多文化主義・寛容・博愛・平等の精神が実は底が浅かったことが浮き彫りになったともいえる。
憲法学の常識に照らせば、この場合「表現の自由」を主張することはナンセンスである。
そもそも表現の自由その他の自由権は、「他者の権利を侵害しない」ことが大前提になっている。ここで他者の権利とは、他者があるもの(信仰でも財物でもいい)を大切にする権利が当然含まれる。たとえば、「自由」だからといって、他人が所有している器物や他人の身体や生命を奪ったり、損傷させてはならない。もし、他者の権利を侵害してまでも自由が認められるというなら、簡単にいえば、テロや殺人にも自由があることになってしまう。
また、「表現であれば直接的には他者の財産や生命に危害を加えることはない」という反論も成り立たない。傷害罪という罪には、身体的な傷害だけではなく、精神的に障害を与えることが含まれる。自由権における自由とは、傷害罪に抵触しない自由である。
そう考えれば、まさに自由権を法思想として確立したはずの西欧のしかも左翼ともあろうものが、「自由」の前提条件を忘れて自由を振り回しているとすれば、末期症状というか、逆に狂っているとしか言いようがない。
イスラーム教においては、ムハンマドは神ではなく人間ではあるが、最後にして最大の預言者とされ、人間の中では特別で至高な存在と認識されている。しかも偶像崇拝禁止の戒律があるから(実はキリスト教やユダヤ教も聖書では偶像崇拝が禁止されている)、神はもちろんムハンマドをはじめとした預言者を絵に描くことはあってはならない。
そういう信仰や文化体系は、尊重されるべきであっても、その信仰や文化体系とはまったく異なる西欧キリスト教の人々が「西欧ではイエスの冒涜も許されるから」といって、ろくに知りもしないイスラームという他者の信仰体系にずかずかと入り込んで、他者の信仰を侵害し冒涜するとしたら、それは傷害罪に該当する明らかな刑事犯罪というべきものである。
西欧の人たちが「イエスを冒涜することは自由だ」というなら、イエスでやればよい。何も他者の信仰体系をネタに利用する必要はない。
ところが、最初にこの戯画を掲載したデンマークの右派大衆紙ユランズ・ポステンはイエスの諷刺画は掲載を拒否したという(Reuters, Wed Feb 8, 12:08 PM ET: Danish paper refused "offensive" Jesus cartoons)。何たる身勝手!
いわば「自分の妻をいかに愚妻といっても、他人にいわれるとむかつく」心理である。自分のものはいくらでも揶揄できるが、他者のものについては慎重になるべきなのである。
実際、ムスリム自身が神を茶化すことは皆無ではない。サウジのような原理主義がちがちの地域ならともかく、比較的リベラルで開放的なレバノン、トルコ、エジプトのムスリムなら神を茶化すことはある。レバノンで何度かそういう発言を耳にした。しかし、注意すべきなのは、たとえムスリムが茶化していたとしても、異教徒であるわれわれが与してはならないということだ。私は彼らが神を茶化したときに決して一緒に加わったりしなかった。もちろん、キリスト者の私にとって同じ神だからよさそうなものだが、契約概念が違うので、下手に雷同するわけにはいかない。
まして、中東のイスラームの人々にとってみれば、西欧キリスト教徒は、十字軍と帝国主義と二度にわたって自らを蹂躙してきた不義の侵略者なのである。
パレスチナのキリスト教家庭出身のエドワード・サイードが喝破したように、西欧が作り出してきた「支配されるべき野蛮人」のイメージとは、まさに西欧の中東観を原型にしているのであって、西欧と中東の憎悪関係はまさに積年のものである。
中東の人々の西欧に関する怨恨が解消され、怒りが解けていないにもかかわらず、加害者である西欧人が、中東のムスリムが至高のものだとして大切にしている対象を戯画によって茶化す。
これが、もし、中東を侵略したことがない台湾人あたりがやったことなら、ムスリムは怒っただろうが、ここまでの怒りにならなかっただろうし、またもしここまで怒ったとすれば台湾人側が「ムスリムも異文化である台湾人を理解すべきだ」ということは可能だっただろう。
しかし、よりによって、西欧人が「自由」を悪用して、再びムスリムを傷つける横暴を働いたのである。ムスリムが怒って当然であろう。
そういえば、湾岸UAEのアル・ハリージュ紙が「欧州にはホロコースト(ユダヤ人虐殺)の否定を禁じる法律がある。ならば、他宗教の侮辱を禁止する法律もつくるべきだ」と提案しているらしい(朝日新聞2月5日「デンマーク大使館放火、諷刺漫画にイスラム圏の抗議激化」参照)。
そのとおりである。
もしそれができないなら、西欧はユダヤ人に一方的に肩入れして、ムスリムをいくらでも侮辱してもいいと思っているだけだということになる。
しかも今回私が驚いたのは、西欧でこれまで移民、多文化主義、差異への権利といった問題については、寛容でリベラルな態度をとっていたはずの左派系メディアまでもが、戯画転載と「自由」の悪用の列に加わったことである。これにはあきれた。逆に、イラク戦争によって中東を武力で踏みにじってきた英米政府とその多くのメディアが逆に自制的で、戯画転載の暴挙を批判しているところが意味深長である。もちろん、米国にはこれ以上ムスリムを敵に回したくないという計算も働いたのだろうが、それ以上にイラク戦争の泥沼化から、何がしかの教訓を得たということもあるだろう。英国については、昨年のテロ事件が教訓となったと伝えられている(毎日新聞2月4日「英紙は不掲載 「責任が伴う」と社説で」;読売新聞2月4日「ムハンマド戯画問題、英外相が欧州各紙の転載を批判」;共同通信2月4日「預言者諷刺漫画「侮辱的」 米、冷静な対応呼び掛け」)。
願わくは、西欧のメディアや左派が、この問題を契機に、この問題を教訓として、異文化への尊重と理解を深めんことを。
問題の戯画については、 http://www.brusselsjournal.com/node/698 を参照。実際、これを見ると、異教徒である私も胸糞が悪くなった。西欧人の偏見と横暴とデリカシーのなさにはほんとうにむかつく。こんなものは諷刺とか揶揄に値しない。単なる異文化蔑視と破壊である。
それから、日本の報道で気になるのは、中東で問題の戯画は、ヨルダンで転載された以外はいっさい転載されていないようなことが書かれているが、私自身はレバノンのイスラーム系がやっているとみられる芸能ブログWALEGに1つだけ言及、紹介されているのを見た。「中東では紹介もタブー」式の報道も、実は「イスラームは偏狭」という偏見と思い込みで決め付けているようにしか思えない。
【ムハンマド諷刺画をめぐる主な動き】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060203-00000138-mai-int
毎日新聞 <ムハンマド諷刺画>「文明の衝突」の様相 背景に国際化 より(台湾蘋果日報2月6日付けで補足))
05年9月30日 デンマーク紙ユランズ・ポステンが12編の諷刺画を掲載
10月上旬 デンマークのイスラム教徒団体が抗議声明
06年1月5日 デンマークのムラー外相とムーサ・アラブ同盟事務局長が電話協議
1月10日 ノルウェーのキリスト教系誌マガジネットが諷刺画を掲載
26日 サウジアラビアが駐デンマーク大使を召還
29日 リビアが在デンマーク大使館を閉鎖
30日 パレスチナ自治区ガザで武装グループが欧州連合(EU)事務所を包囲、謝罪要求
31日 ユランズ・ポステン紙が釈明
2月1日 諷刺画転載の仏紙フランス・ソワールが編集局長を更迭
2日 パレスチナ武装勢力がドイツ人1名を拉致、のちに釈放;ノルウェーがヨルダン川西岸の代表部を閉鎖
~3日 ドイツ、フランスなど7カ国紙が諷刺画を掲載
3日 インドネシアのイスラーム過激派勢力がデンマーク大使館敷地に侵入し抗議活動;ラスムセン・デンマーク首相がイスラム教国11カ国の駐コペンハーゲン大使と会合
4日 シリア・ダマスカスでデンマークとノルウェー大使館前で抗議活動と放火
5日 レバノン・ベイルートのデンマーク大使館周辺で抗議活動と放火
参照記事(直リンクにしなかったのは、ヤフーのページは後日に消えるはずだし、デイリースターはURLが長く画面表示に問題が起こるため):
朝日新聞 2月3日 諷刺漫画掲載への同調広がる フランス
http://www.asahi.com/international/update/0203/004.html
一方、カトリック教会のリヨン大司教は2日、AFP通信に「イスラム教徒が受けた傷は理解できる」と発言。フランスの司教協議会も「表現の自由には個人の信仰への敬意が伴うべきだ」と表明した。
産経新聞 2月4日 イスラム諷刺漫画 各紙転載 欧州全土、騒動飛び火
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060204-00000009-san-int
欧州でドイツとフランス、イタリア、スペインに続き、オランダ、スイス、チェコの有力紙が転載。
仏紙ルモンドは社説で「民主主義では言論を取り締まることはできない」と訴え、イスラム教徒はムハンマドの漫画に衝撃を受けても致し方ないとの主張を展開した。
フランスのサルコジ内相は二日、テレビ番組で、検閲よりも諷刺の行き過ぎの方が許容できるとの見解を示し、仏紙の報道を支持した。ただ、仏紙フランス・ソワールでは騒動に火を注ぐ形となったことに内部で批判も起こり、編集長が一日、更迭された。
一方、独紙ウェルトは漫画に合わせて「欧米社会には冒涜(ぼうとく)する権利もある。イスラム教の世界には諷刺を理解する力はないのか。イスラム教徒の抗議は偽善だ」と主張、独政府は同紙の報道に「政府が介入すれば、言論の自由を阻害する」と、事態を静観する構えだ。
共同通信 2月4日 「謝罪あり得ない」 デンマーク首相
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060204-00000001-kyodo-int
欧州では「表現の自由」を掲げ、新聞が諷刺画を載せる動きが拡大、3日もフランスのリベラシオン紙やスペインのパイス紙が掲載した。
毎日新聞 2月4日 <ムハンマド諷刺画>英紙は不掲載 「責任が伴う」と社説で
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060204-00000022-mai-int
読売新聞 2月4日 ムハンマド戯画問題、英外相が欧州各紙の転載を批判
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060204-00000202-yom-int
共同通信 2月4日預言者諷刺漫画「侮辱的」 米、冷静な対応呼び掛け
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060204-00000046-kyodo-int
http://www.asahi.com/international/update/0205/001.html
朝日新聞 2月5日 デンマーク大使館放火、諷刺漫画にイスラム圏の抗議激化
中東のメディアは批判一色だ。アラブ首長国連邦紙ハリージュは3日付で「欧州にはホロコースト(ユダヤ人虐殺)の否定を禁じる法律がある。ならば、他宗教の侮辱を禁止する法律もつくるべきだ」と論じた。
一方、中東のキリスト教徒の間では、この問題が宗教間の争いに発展することを懸念する声も出ている。イラク北部キルクークにあるキリスト教会の大司教は、1月29日に地元の教会を狙って起きた連続爆弾テロの引き金も諷刺漫画問題だったとの見方を示した。ロイター通信に対し「我々は欧州で出版された漫画に何の責任もないはずだ」と嘆いた。
英左派系ガーディンの分析記事と関連リンク
The Guardian, Feb 6,2006, Comment, Cartoon conflicts
http://www.guardian.co.uk/comment/story/0,,1703368,00.html
ユランズ・ポステンはイエスの諷刺漫画は掲載拒否
Danish paper refused "offensive" Jesus cartoons
http://news.yahoo.com/news?tmpl=story&cid=2630&ncid=2630&e=13&u=/nm/20060208/wl_nm/religion_cartoons_denmark_jesus_dc_1
ベイルート公館焼き討ちについては、残念ながら当日記事収集を怠ったので、レバノン英字紙デイリースターしかURLを挙げられない。主な記事だけ。
The Daily Star, Feb 6- Politics - Violence plagues protest against cartoons of Prophet Mohammad(Rym Ghazal執筆の記事、リムちゃんは典型的なレバノン美人で愛想もよかった)
http://www.dailystar.com.lb/article.asp?edition_id=1&categ_id=2&article_id=21994
Daily Star, Feb 6- Politics - Violent protests draw ire of Achrafieh residents
http://www.dailystar.com.lb/article.asp?edition_id=1&categ_id=2&article_id=21993The
The Daily Star, Feb 6- Editorial - Failure to take precautions is a sign of serious incompetence
http://www.dailystar.com.lb/article.asp?edition_id=10&categ_id=17&article_id=21983
The Daily Star, Feb 7- Editorial - Action is urgently required if stability is to prevail in Lebanon
http://www.dailystar.com.lb/article.asp?edition_id=10&article_id=22005&categ_id=17