2年前の「海角7号」をあてた魏徳聖監督による注目の話題作「賽克巴萊 (上)太陽旗」(セデック・バレ・第一部・日章旗)(セデック・バレとは「真の(正しい)セデック人」の意味)が本日封切された。朝9時半からやっていたので「絶色」で見てきた。9時38分から始まって、12時に終了。
映画そのものはテンポもよくて画面も綺麗で面白いのだが、いかんせん残虐シーンが多いので、あまり後味はよくない。それからこの手の台湾映画にしては珍しく日本人にも優しい描き方ではない。かといって残虐シーンが多すぎるせいででセデックのほうにも感情移入しにくく、そういう意味でも後味は良くない。
史実に忠実といえば忠実だし、ちゃんとセデック語を使ったことは従来霧社事件を描いた台湾の映画ドラマになかったことなので、評価できる。
日本人に優しい描き方ではなかったという点では、事前に2ちゃんねるのスレで、ネトウヨが「反日映画」と懸念していたことは、まるっきりはずれではなかった。
とはいえ、史実を考えれば、日本人が蕃人に対して横暴だったことは事実なんだし、マレー系の人たちにとって、むやみやたらに人前で怒鳴られたり、びんたされたりすることは、個人の誇りとメンツを致命的に傷つけることになるので、この程度の日本人に批判的な描写はいたし方ないだろう。
というか日ごろ「日本人の誇りを取り戻せ」なんて主張しているネトウヨや右派系が、なぜマレー系にとって「人前で怒鳴られること」がいかに彼らの誇りを傷付けるかに思いが至らないとしたら、まるで日本のネトウヨの神経は中国人並みだといっておこうw。
ただし、誤解してはならないのは、この映画の主題は日本統治そのものへの批判ではない。もっと大きく「文明」と「野蛮」の対立としてとらえている。
ここで「野蛮」とは伝統的な民族の共同体であり、マヘボ社の怒りは主に伝統的な猟場が法律によって禁止され、祖先を祭ることが神社によって代えられた、という素朴な怒りだということだ。
文明は便利にする。しかし伝統的な自給自足でそれなりに満ち足りていた生活様式を奪うことで、原住民は貧しくなってしまった。
野蛮な首狩として日本統治になってから禁止の対象となる「出草」も、本来は神聖な儀式だった。
事実、近代以前とは、こうした村落共同体へは「国家」の統治が及ばない状態だった。反抗さえしなければ、村落ごとにどんな生活をしてもよかった。それが近代国家になると、主権が全国均等に及ぶという観念が強いため、すべての共同体内部にも干渉し、これをしてはいけない、あれをすべきだという指示するようになる。それがさらにマレー系のように誇り高くメンツが強い種族に対して、人前で怒鳴ったり、ビンタを食らわせるようにやると大変だ。当然「野蛮」側の不満と反感は蓄積される。
この映画は、そういう意味では、「反日」ととらえるよりも、近代文明全体への批判とも言える。その点では、国民党体制への批判にもなっている。実際、「蕃人なんて酒さえ飲ませておけばよい」という台詞は、むしろ日本の統治の発想というより、国民党の発想なわけだから。日本統治時代には消滅させられず国民党になって息の根を止められつつあるセデック語をわざわざ使っているところからもそれが伺える。
そもそも魏監督は台南出身でキリスト教長老教会の熱心な信者で、思想的には民進党系「深緑」なのだから。
役者についていうと:
大人になってからのモーナ・ルーダオ役は、長老教会のセデック語教会の牧師が担当している。素人のわりに、表情がうまい(踊りは下手だったがw)。
原住民の牧師だけに、日本語の台詞回しもそこそこうまい。
花岡二郎役の日本語はけっこううまい。
また、花岡初子はビビアン・スーが演じた。
日本統治初期の軍人は、再び日比野氏がやっている。「1895乙未」でも北白川宮役をやった。
木村祐一が警官役で、やたら蕃人をバカにするが、セデック語の台詞もしっかり披露していた。
「海角」に出ていた田中千絵も、日本人警官小島の妻役で出ていたが、相変わらずキツイ女の役だ。しかし魏監督、えらく田中を気にいっているようだなw。あんなのどこがいいのだ?wまあ、演技は「海角」やその直後の「スミマセン」よりもうまくなっていたがw。
日本語部分は台湾映画字幕歴が長く、別の台湾人監督と結婚している小坂史子氏が担当した。ただ若干問題があった。日本が最初ゲリラ掃討戦を展開するときに「漢族」といっていたが、当時の日本は一般的には漢族なんて言い方はしなかったと思う。文化的にシナ人と呼び、台湾土人といっていたはずだ。蕃人はそのまま使っているのだから、土人も使うべきだろう。
「海角」の10倍くらいカネをかけているだけあって、演技・言語指導は台湾映画にしては行き届いているし、映像も「海角」のチープさはなく、かなり重厚で綺麗だ。まあCGが多用されているが。
それにしてもCGを最大限活用できる時代になったことから、生々しい首狩シーンが多いのは、心臓に悪い。これがヴェネツィアでも不評だったようだが、リアリティを出すためとはいえ、あまりにも多すぎた。
感心したのは、原住民(エンドロールの人名を見ると、セデックばかりではなさそうだった)をたくさん使った現場で、よくクランクアップから上映まで漕ぎ着けられた点だ。この点はすごいと思う。マレー系の血が色濃い普通の台湾人でも、こうした集団行動は苦労するのに、原住民だとその苦労は倍だ。ちょっとしたことで、すぐにメンツがつぶれたといって、仕事をさぼったりしがちだからだ。
それにしても、わりと深刻な映画なのに、あいかわらず台湾人観客はよく笑うな。もっとも、ホーロー人が2人ほど出てくるが、台湾語の台詞が出てくると、観客が笑うというか、反応が良かった点は、なんだかんだいって台湾人の台湾語への愛着を感じさせた。
ちなみに、エンドロールを見ていると、音響効果は韓国のプロダクションがかかわったようだ。ネトウヨが過敏な反応をしそうなところだw。
映画そのものはテンポもよくて画面も綺麗で面白いのだが、いかんせん残虐シーンが多いので、あまり後味はよくない。それからこの手の台湾映画にしては珍しく日本人にも優しい描き方ではない。かといって残虐シーンが多すぎるせいででセデックのほうにも感情移入しにくく、そういう意味でも後味は良くない。
史実に忠実といえば忠実だし、ちゃんとセデック語を使ったことは従来霧社事件を描いた台湾の映画ドラマになかったことなので、評価できる。
日本人に優しい描き方ではなかったという点では、事前に2ちゃんねるのスレで、ネトウヨが「反日映画」と懸念していたことは、まるっきりはずれではなかった。
とはいえ、史実を考えれば、日本人が蕃人に対して横暴だったことは事実なんだし、マレー系の人たちにとって、むやみやたらに人前で怒鳴られたり、びんたされたりすることは、個人の誇りとメンツを致命的に傷つけることになるので、この程度の日本人に批判的な描写はいたし方ないだろう。
というか日ごろ「日本人の誇りを取り戻せ」なんて主張しているネトウヨや右派系が、なぜマレー系にとって「人前で怒鳴られること」がいかに彼らの誇りを傷付けるかに思いが至らないとしたら、まるで日本のネトウヨの神経は中国人並みだといっておこうw。
ただし、誤解してはならないのは、この映画の主題は日本統治そのものへの批判ではない。もっと大きく「文明」と「野蛮」の対立としてとらえている。
ここで「野蛮」とは伝統的な民族の共同体であり、マヘボ社の怒りは主に伝統的な猟場が法律によって禁止され、祖先を祭ることが神社によって代えられた、という素朴な怒りだということだ。
文明は便利にする。しかし伝統的な自給自足でそれなりに満ち足りていた生活様式を奪うことで、原住民は貧しくなってしまった。
野蛮な首狩として日本統治になってから禁止の対象となる「出草」も、本来は神聖な儀式だった。
事実、近代以前とは、こうした村落共同体へは「国家」の統治が及ばない状態だった。反抗さえしなければ、村落ごとにどんな生活をしてもよかった。それが近代国家になると、主権が全国均等に及ぶという観念が強いため、すべての共同体内部にも干渉し、これをしてはいけない、あれをすべきだという指示するようになる。それがさらにマレー系のように誇り高くメンツが強い種族に対して、人前で怒鳴ったり、ビンタを食らわせるようにやると大変だ。当然「野蛮」側の不満と反感は蓄積される。
この映画は、そういう意味では、「反日」ととらえるよりも、近代文明全体への批判とも言える。その点では、国民党体制への批判にもなっている。実際、「蕃人なんて酒さえ飲ませておけばよい」という台詞は、むしろ日本の統治の発想というより、国民党の発想なわけだから。日本統治時代には消滅させられず国民党になって息の根を止められつつあるセデック語をわざわざ使っているところからもそれが伺える。
そもそも魏監督は台南出身でキリスト教長老教会の熱心な信者で、思想的には民進党系「深緑」なのだから。
役者についていうと:
大人になってからのモーナ・ルーダオ役は、長老教会のセデック語教会の牧師が担当している。素人のわりに、表情がうまい(踊りは下手だったがw)。
原住民の牧師だけに、日本語の台詞回しもそこそこうまい。
花岡二郎役の日本語はけっこううまい。
また、花岡初子はビビアン・スーが演じた。
日本統治初期の軍人は、再び日比野氏がやっている。「1895乙未」でも北白川宮役をやった。
木村祐一が警官役で、やたら蕃人をバカにするが、セデック語の台詞もしっかり披露していた。
「海角」に出ていた田中千絵も、日本人警官小島の妻役で出ていたが、相変わらずキツイ女の役だ。しかし魏監督、えらく田中を気にいっているようだなw。あんなのどこがいいのだ?wまあ、演技は「海角」やその直後の「スミマセン」よりもうまくなっていたがw。
日本語部分は台湾映画字幕歴が長く、別の台湾人監督と結婚している小坂史子氏が担当した。ただ若干問題があった。日本が最初ゲリラ掃討戦を展開するときに「漢族」といっていたが、当時の日本は一般的には漢族なんて言い方はしなかったと思う。文化的にシナ人と呼び、台湾土人といっていたはずだ。蕃人はそのまま使っているのだから、土人も使うべきだろう。
「海角」の10倍くらいカネをかけているだけあって、演技・言語指導は台湾映画にしては行き届いているし、映像も「海角」のチープさはなく、かなり重厚で綺麗だ。まあCGが多用されているが。
それにしてもCGを最大限活用できる時代になったことから、生々しい首狩シーンが多いのは、心臓に悪い。これがヴェネツィアでも不評だったようだが、リアリティを出すためとはいえ、あまりにも多すぎた。
感心したのは、原住民(エンドロールの人名を見ると、セデックばかりではなさそうだった)をたくさん使った現場で、よくクランクアップから上映まで漕ぎ着けられた点だ。この点はすごいと思う。マレー系の血が色濃い普通の台湾人でも、こうした集団行動は苦労するのに、原住民だとその苦労は倍だ。ちょっとしたことで、すぐにメンツがつぶれたといって、仕事をさぼったりしがちだからだ。
それにしても、わりと深刻な映画なのに、あいかわらず台湾人観客はよく笑うな。もっとも、ホーロー人が2人ほど出てくるが、台湾語の台詞が出てくると、観客が笑うというか、反応が良かった点は、なんだかんだいって台湾人の台湾語への愛着を感じさせた。
ちなみに、エンドロールを見ていると、音響効果は韓国のプロダクションがかかわったようだ。ネトウヨが過敏な反応をしそうなところだw。