
No,117
アルフォンス・ミュシャ、「花」、19世紀チェコスロヴァキア、アールヌーヴォー。
これはまた、美しい女性像である。
どちらかというと豪華に美しく描きすぎだ。好みではないが、語るに重要な点があるので取り上げた。
女性を描く時には、たまにはこのように花や宝石類などで豪奢に飾ってしまいたくなるね。美しいものを、思い切り美しく描いてみたいという欲求が生まれる。男を描く時にはこれができない。
女性美というのを見ると、神の御業の見事さを思うよ。神の美しさの極みを見る。いや、感嘆するね。女性とは要するに、神の美を受け入れたものなのだ。美しいものを作りたいという、神の御心を受け入れたものなのだよ。
男には、これを要求することは、無理だ。その存在の独自性を矯めるようなことは、神は男にはなさらない。その存在に美を与えつつも、自己存在そのものに、おのずからその美を表現せよという。それが男の美だ。
だが女性美とは、自己存在の独自性の美というよりも、神が与えたそのままの美の表現である。女性とは、ある程度、自己存在の独自性を弱め、神の独自性を自らに受け入れるというものなのだ。だから、女性美の中には、神の美があるんだよ。
女性は時に、目を閉じ、一歩下がることによって、自らの中に神の愛をたぐりよせ、自らによって、神の愛を表現することがある。それが、女性の美というものだ。
これを見ると、そのみごとさを思う。男ならば、これほど飾られるのは、いやだ。だが女性なら、受け入れる。美しくなればなるほど、神が美しくなるからだ。
どうだね。女性美とは、すばらしいだろう。
アルフォンス・ミュシャ、「花」、19世紀チェコスロヴァキア、アールヌーヴォー。
これはまた、美しい女性像である。
どちらかというと豪華に美しく描きすぎだ。好みではないが、語るに重要な点があるので取り上げた。
女性を描く時には、たまにはこのように花や宝石類などで豪奢に飾ってしまいたくなるね。美しいものを、思い切り美しく描いてみたいという欲求が生まれる。男を描く時にはこれができない。
女性美というのを見ると、神の御業の見事さを思うよ。神の美しさの極みを見る。いや、感嘆するね。女性とは要するに、神の美を受け入れたものなのだ。美しいものを作りたいという、神の御心を受け入れたものなのだよ。
男には、これを要求することは、無理だ。その存在の独自性を矯めるようなことは、神は男にはなさらない。その存在に美を与えつつも、自己存在そのものに、おのずからその美を表現せよという。それが男の美だ。
だが女性美とは、自己存在の独自性の美というよりも、神が与えたそのままの美の表現である。女性とは、ある程度、自己存在の独自性を弱め、神の独自性を自らに受け入れるというものなのだ。だから、女性美の中には、神の美があるんだよ。
女性は時に、目を閉じ、一歩下がることによって、自らの中に神の愛をたぐりよせ、自らによって、神の愛を表現することがある。それが、女性の美というものだ。
これを見ると、そのみごとさを思う。男ならば、これほど飾られるのは、いやだ。だが女性なら、受け入れる。美しくなればなるほど、神が美しくなるからだ。
どうだね。女性美とは、すばらしいだろう。