人生には一度に色んなことが押し寄せてくることがあります。この冬、我が家では七件の葬儀に参列しました。私は行っていないのですが、子供の頃から知っている方も何人かいました。映画『おくりびと』が、アカデミー賞外国語映画賞を受賞しましたね。一般庶民が、映画のような葬儀をするようになったのは、そんなに古いことではありません。田舎では、昔は土葬が一般的でしたし、墓地も霊園ではなく自分の土地の一部や山際や山の上にあったものです。今でもそういう例も残っています。
我が一族の最も古い墓地は、山の中腹にあります。しかし、墓の形式や古さをみると江戸時代末期に造られたものだということが分かります。墓の主は、1582(天正10)年没ですから、本能寺の変で信長が討たれ。武田氏が滅亡した年です。我が祖先は武士だったようですが、川中島合戦などの激戦地だったこの地で、彼はどのような人生を送ったのでしょうか。
現在主流の公園形墓地は、明治時代以降のものです。そして、大都市近郊の霊園の増加は、今や深刻な都市問題となっています。鎌倉アルプスに登ると、見えてくるのは鎌倉市街をグルッと取り囲むようにある広大な墓地群の数々。このままでは、日本中墓地だらけになってしまいそうな勢いですが、おそらくそうはならないでしょう。継承者のいない無縁墓地は、半分以上にのぼるとか。散骨も増えてくるでしょう。ブラジルへ行ったときに、墓のない町というのがありました。町ができたばかりで、まだ誰も亡くなっていないのだそうです。G・ガルシア・マルケスの『百年の孤独』のように、「何もない地で、人は物の名前を付けることから始め、最後は蟻のむさぼるところとなってこの世から消える。」のでしょう。
古墳というのは、単なる墓地ではなく、齋(いつき)なる場として権力の象徴や祭祀のための祭殿の役割もあったようですが、その頃の一般庶民についての墓は、あまり語られることがありません。江戸の初期まで「墓石制限例」という法令があり、縛られてきました。水葬にされたり野山に適当に埋葬されていたということでしょう。どんな立派な墓を建てても、巨大古墳のように歴史的建造物にでもならないかぎり、いつかは消えていくのが定めなのでしょうね。これからは宇宙葬なんてのも出てきそうです。
突然の春の大雪は、5センチもの大きな塊で降ってきました。数日前の暖かさで出てきた甲虫がよろよろと歩いていました。ちょうど灯油をふき取ったティッシュを燃やしていました。『泥の河』で、子供が蟹の甲羅に火を付けて歩かせるシーンがありましたが、戦争真っ直中で育った子供の小さな狂気が、やがてその子供に新たな狂気を植えつけて繁栄(反映)していったのが昭和だったのではと、斎場山に降りかかっる牡丹雪を見て想ったのでした。私はもう子供ではないので火はつけませんでしたが…。庭に咲いた、太陽を一心に集めていたパラボラアンテナの黄金の花、福寿草は固く閉じてしまいました。花言葉は、永久の幸福ですが、食べると時に死に至る毒草です。