徐福は秦の始皇帝の命を受け、紀元前220年頃に東海の三神山に不老不死の仙薬を求めたという伝説上の人物とされている。1000人とも3000人とも言われる少年少女を連れて日本に渡ったが、そのまま日本に居着いてしまったという説もあるようだ。
九州佐賀県の金立神社では1980年4月29日の昭和天皇の誕生日に創立2200年の「徐福大祭」が三日間に渡って行われたそうである。また、徐福の墓を保存している和歌山県新宮市では、毎年、「御船祭」、「燈祭」、「火祭」が行われる。
このように徐福と日本との関わりは深いようであるが、司馬遷の記した史記には、徐福が日本に渡ったという明確な記述はない。徐福が日本に渡ったということが書かれたのは五代の後周の時代(951-960年)のずっと後のことである。「義楚六帖」という本が徐福と日本との関係に最初に触れたものではないかという。
「義楚六帖」の「城廓・日本」の章に「日本は倭国ともいい、東海の中に位置する。秦の時代に徐福というものが五百人の少年と五百人の少女を連れて行った。当地の人間は長安の人間に似ていた。また、東の方千キロ離れたところに山があり富士という。蓬莱ともいうが、徐福がその山をたずねたので、蓬莱の名を得たとも考えられる。地元の住民はみな自分のことを秦氏と称している」と記述されている。
著者は徐福が日本に渡った説を支持しているようであるが、私には謎だらけである。まして徐福と神武天皇を結びつけることに至ってはあまりに飛躍しすぎているのではないだろうか。
ただ、「1966年に黒髪山の麓で秦の阿房宮古い硯が発見された」こと、「大正時代(1912-1926年)日本の西南海岸で紀元前4世紀から前1世紀のものと見られるこの時代日本では製造技術がなかった大量の銅鐸、銅鉾、銅剣を発見、これらのものは中国大陸及び朝鮮半島で発掘された金属器と同じか、非常に似通ったものである」という記述には興味を持った。
今でも考古学者や歴史学者が研究されているのだろうが、科学的な方法で是非この課題に取り組み謎解きをしてもらいたいものである。
新宮駅近くにある徐福公園のホームページは以下の通り
http://www.mikumano.net/meguri/jofuku.html
書名:中国文化故事物語
著者:王矛、王敏
発行所:原書房
発行:1990年9月22日
九州佐賀県の金立神社では1980年4月29日の昭和天皇の誕生日に創立2200年の「徐福大祭」が三日間に渡って行われたそうである。また、徐福の墓を保存している和歌山県新宮市では、毎年、「御船祭」、「燈祭」、「火祭」が行われる。
このように徐福と日本との関わりは深いようであるが、司馬遷の記した史記には、徐福が日本に渡ったという明確な記述はない。徐福が日本に渡ったということが書かれたのは五代の後周の時代(951-960年)のずっと後のことである。「義楚六帖」という本が徐福と日本との関係に最初に触れたものではないかという。
「義楚六帖」の「城廓・日本」の章に「日本は倭国ともいい、東海の中に位置する。秦の時代に徐福というものが五百人の少年と五百人の少女を連れて行った。当地の人間は長安の人間に似ていた。また、東の方千キロ離れたところに山があり富士という。蓬莱ともいうが、徐福がその山をたずねたので、蓬莱の名を得たとも考えられる。地元の住民はみな自分のことを秦氏と称している」と記述されている。
著者は徐福が日本に渡った説を支持しているようであるが、私には謎だらけである。まして徐福と神武天皇を結びつけることに至ってはあまりに飛躍しすぎているのではないだろうか。
ただ、「1966年に黒髪山の麓で秦の阿房宮古い硯が発見された」こと、「大正時代(1912-1926年)日本の西南海岸で紀元前4世紀から前1世紀のものと見られるこの時代日本では製造技術がなかった大量の銅鐸、銅鉾、銅剣を発見、これらのものは中国大陸及び朝鮮半島で発掘された金属器と同じか、非常に似通ったものである」という記述には興味を持った。
今でも考古学者や歴史学者が研究されているのだろうが、科学的な方法で是非この課題に取り組み謎解きをしてもらいたいものである。
新宮駅近くにある徐福公園のホームページは以下の通り
http://www.mikumano.net/meguri/jofuku.html
書名:中国文化故事物語
著者:王矛、王敏
発行所:原書房
発行:1990年9月22日