凡凡「趣味の玉手箱」

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中国古典作品にみる巫蠱術

2006-02-05 20:55:57 | 読書備忘録
巫蠱(ふこ)を広辞苑で引くと、まじない。人を呪うこととある。

中国史上の巫蠱の大事件と言えば、紀元前91年前漢の武帝時代に起こった「巫蠱獄」事件である。武帝が重病になったとき、役人の江充が帝の病の原因は、皇太子の戻太子が巫術を使っているからだと上言した。

江充はかつて、戻太子の過誤を恐れずに摘発したことから、戻太子から憎まれており、武帝が亡くなり戻太子が即位することを恐れていたのである。

そこで彼は戻太子を陥れるために悪知恵を働かせた。この時代巫蠱術が民間のみならず、皇室の中でも盛んに使われていたのだが、万が一摘発された場合には厳しく罰せられた。江充はまず役人を大勢引き連れて、各地で巫蠱の調査を行った。そしてあちこちから沢山の木製の人形を掘り出した。実はこれは江充があらかじめ事前に埋めておいたものである。
江充はこれらの人形が皇帝を呪う巫蠱の動かぬ証拠と言い、長安では無実の人間が数万人も殺されたのである。

そうしておいて、次に江充は後宮にも調査の手を伸ばした。皇太子宮から予定通り(予め人形を埋め込んでおいたから)人形を掘り出した。聡明な皇太子はすぐにこれが江充の陰謀であると見抜いたが直接皇帝の命に逆らうことができなかったので、自分の家臣を皇帝の使者だと偽って、江充を捉え殺してしまった。

皇太子のこの行動はただでさえ、疑り深くなっていた武帝の疑いをさらに深くし、皇太子とその家族を紀元前91年に皆殺しにしてしまった。

翌年、皇太子は江充を殺しただけで謀反軒持ちはなかったことがはっきりしたのだがあとの祭りとなった。

さてこの巫蠱術であるが、原始宗教の一種であって最初は自然に対する対策として使われていた。干魃に見舞われると呪術を用いて雨乞いをするなどがその例である。その後、巫蠱術は次第に転化されて人間に対しても使われるようになっていった。その方法はまず、相手そっくりの人形を作り、誕生日と名前を札に書く。それから札を秘密の箱にしまい込み、針で人形を刺すか、あるいは人形の頭をしっかり縛る。悪魔の姿を切り紙にして、人形の周りにおいて呪いの呪文を唱える。ここまで準備すると、針を人形に通すと本人も同じ部位に痛みを感じるし、人形の頭を縛ると相手の頭も痛み出すというわけである。

われわれ現代人からみれば巫蠱術は科学的根拠もないしばかばかしい話であろうが、古代人にとってはこの上もない信ずべき法力であったようである。

この話は中国文化故事物語に書かれているのだが筆者の故人の王矛はジャーナリストで中国はもとより世界各国の様々な情報を持っている。

中国古代の作品から巫蠱術を引用して紹介していることも興味深いのだが、外国での事例を引用して念力・超能力と巫蠱術に関係があるのではないかと話を展開しているのも面白い。

1978年にフィリピンで開催された国際将棋試合の席上でソビエトの催眠術の大家であるウラジミール・ズカル博士がソビエトの対戦相手である他国の選手を念力で制御して集中力をそいだ事に成功したという事例。

同じくソビエトの有名な超能力者、ニーナ・クラジナが念力を使って遠く離れたところにいたカエルの心臓の鼓動を止まらせた。彼女の能力に疑いを持った医者がいたのでさらに同じ術を医者にも試みた。するとその不幸な医者の心臓の鼓動は早まって5分も経たないうちに死にそうになったという。

まあ、この二つの話は信じる気にはならないけれど、中国には気功師がいて念力と気功の「外気」により雲の按配を調整して雨の有無を制御できるようになったというような話もある。

巫蠱術が存在するのか、超能力者の存在とともに興味のあるテーマである。

巫蠱術によって陥れられないよう日頃から人の恨みを買わないような行動をするのが一番だと自分は思う。

書名:中国文化故事物語
著者:王矛、王敏
発行所:原書房
発行:1990年9月22日



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