こんにちは亀さんです

住民の願いが政治に届くようにと日本共産党石川1区(金沢市内)で活動しています。

ロシア・イルクーツクとの交流(総会発言から)

2016-03-31 19:33:03 | 日記

日本ユーラシア協会総会で、石川県とロシア・イルクーツク州との友好交流の歴史の発言を

と要請され、40年以上携わったものの一人として、発言しました。加筆して紹介します。

1)前史

1950(昭和25)年 日ソ親善協会石川県支部結成

七尾港に木材積んだソ連船が入るし、隣国と仲良くしたいとの思いから、親善協会が結成され

ました。そして1956年に日ソ共同宣言(平和条約締結後に国後・択捉2島を日本に引き渡す

など)の締結をうけ、翌57年に日ソ協会石川県支部と名称が変わりました。県民に日ソ協会の

名前を知らしめたのは生ワクチン輸入運動です。50年代、日本のお母さん方は小児麻痺に戦々

恐々でした。この治療にソ連の生ワクチンがいいということで、母親中心の運動がおこり、日

本で初めて城北病院で投与し、成功し、1961年本格的な輸入運動になりました。

子供たちに夢ある行事をとソ連でやられている「モミの木まつり」を観ようと東京にでかけ、

1963年第1回の「まつり」が開催され、それ以後、子どもを主人公とする最大行事として

数十年間続きました。

日露戦争(1905年)の捕虜で金沢で病死した11人のうち10人が県戦没者墓苑の片隅に眠っ

ていました。日ソ協会は会員のボランテイア活動で1965年、現在地の野田山に墓地改修作業を

し、8月に、ソ連大使館、県知事、参議院議員、金沢市長はじめ政界や宗教界、遺族会などの参列

のもと、慰霊祭が行われました。今日まで、ソ連(ロシア)との友好交流のシンボルとして、旧ソ

連圏の人が石川県を訪れた際は、墓参しています。毎年、協会員による慰霊祭もおこなれています

。そしてこの1965年中西知事夫妻がモスクワ訪問の帰路にイルクーツクに立ち寄ったのがきっ

かけで、イルクーツクとの交流が始まったのです。

2)イルクーツクとの交流スケッチ

姉妹都市提携と交流

1966年7月 日ソ協会石川県連合会とソ日協会イルクーツク支部との間で兄弟関係の協定が

結ばれました。石川県とイルクーツク州との生活・文化芸術・住民間の交流をすすめる、金沢市

との姉妹都市提携に努力するなどです。そして1967年にイルクーツク市と金沢市、1970

年にブラーツク市と七尾市、1976年にシェレホフ市と根上町(現能美市にも継続)との間で

姉妹都市提携が結ばれ、文化スポーツはじめ人の交流が続けられています。特筆すべきは中学生

の交流です。1968年には全国初の使節団(金沢市と根上町)がロシアを訪問し、81年に根上

町から中学生がシェレホフ市との相互交流、やがて金沢市、七尾市でも中学生交流が広がりました。

1991年に「石川ウィーク」の一大イベント(行政・議会・住民の代表団、伝統芸能やファッショ

ンショー披露、経済シンポジウムと見本市の開催、花火大会)にマスコミ関係者含め180名がイル

クーツクを訪問しました。この時、イルクーツク州と石川県とので友好交流協定が結ばれました。

芸術スポーツの国からと、イ州交響楽団や芸能代表団の県内演奏や披露、新体操チームの金沢市で

のパフォーマンスなども県民・市民に親しまれました。ロシア語、日本語研修生の派遣なども実現

しました。

姉妹関係ではありませんが、1998年から加賀市とウソリエ・シビルスコエ 市、2003年には小松

市とアンガルスク市とが行政関係者含めた住民交流が行われています。個人的にも親交重ねたノジ

コフ州知事は「我々の関係は、時代の試練に耐え、人間の活動のあらゆる分野における真に友好的

かつ実りの多い協力関係の見本となっています」と住民間交流を、協会40年にあたり記念誌に寄稿

してくれました。

 

 

3)住民間交流

日ソ協会(ロシア協会)は上記の姉妹都市提携運動は勿論、草の根の住民間交流に力を入れま

した。経済界の要望に応え、県内企業が対岸貿易促進にと日ソ貿易協同組合の結成(1968年、

私は73年から2001年までお世話になりロシアの友人も多くできました)があり、上記の石川

ウィークは事務局的役割を果たしました。子どもたちの絵画を紹介展示する、浴衣での文化

交流団、他国に比べて交通費が高いので、ホームステイや簡易宿泊所、乗用車活用などで費用

軽減する人の交流、イルクーツクにあった「兼六園クラブ」(日本語と日本文化を親しむ青年

のクラブ)との交流、ロシア語教室やロシア料理教室の開催、「モミの木まつり」を発展させ

た「フェスタバイカル」イベント、大学の先生中心のシベリア学術調査団派遣協力、数次にわ

たる墓参団派遣シベリア抑留者シンポジウム開催、ユーラシア協会本部と協力した日ロフォ

ーラムの開催(経済・環境問題、文化教育、人的交流など)など、人と人との交流に力を注い

できました。特筆すべきは、イルクーツクや石川県を訪問する日本人やロシア人のため県の助

成うけ、両地域の歴史文化、観光と生活の見どころなどロシア語と日本語で紹介するパンフレ

ットを10年以上出版していることです。編集のため、取材にイルクーツクに出かけたことも

あります。

イルクーツクだけでなく、かつては旧ソ連各地から船で金沢港を訪れる観光客のおもてなしと

交流は、一般市民県民が気軽にロシア人との交流できる場でもあり、力を入れました。古くは、

北洋漁業で拿捕される漁民の解放と問題解決にロシア語学習と大使館交渉に力も注ぎました。

ロシア極東地域とも交流を、現在は白山市の協会がウスリースク市と交流をしています。政府

レベルでない、住民間の交流に今後も取り組んでいきます。


発見と出会いーユーラシア協会総会

2016-03-29 16:26:41 | 日記

ロシアとの友好運動はかれこれ40年以上となります。貿易に携わったのが28年ですから、

退職、転職しての現在に至るまで友好運動にかかわっています。全国の仲間が集う総会に

遊説・懇談の日程をはずしてもらい、名古屋に出かけました。26日の朝の金沢はやや寒か

ったですが、名古屋は桜が咲き始めていました。

      第一目の夜は恒例の歓迎行事。現地の合唱団

の歌声、かわいい子供たちのダンス、そしてモスクワでしっかり実績つまれた若きピアニスト

の演奏披露は旅の疲れをとってくれました。2年前の横浜総会じつは直前に骨折入院となった

ので、4年ぶりに再会の方もいて、懐かしき交流の場ともなりました。

分科会は「日ロ関係の発展めざしてー平和

条約と経済交流」に参加。杉浦名古屋大名誉教授の「ロシア法学の視点から北方領土問題を考

える」はなかなか刺激的。領土問題は解決済みと以前の主張を後退させているロシア側見解に

疑問を呈する形で問題を提起。1993年制定のロシア憲法では、平和、国家間の互恵的協力を

保証するため、「国内法を国際法のスタンダードに合わせよう!」のスローガンのもと、国際

法の「優先的意義または優位の原則」に従い、国内法と国際法をとらえることを主張する。

(「ロシア連邦は、条約上および慣習上の規範を無条件に遵守し、国際法の基本原則である

国際的義務の誠実な履行に忠実であることを確認する」)この立場から、1956年の日ソ共同

宣言(日ソ平和条約締結後に歯舞・色丹を引き渡す)を誠実に履行する国際的義務を負って

いるとして、今後の交渉で双方が受け入れ可能の解決策を探ることを提案しました。

もう一人の在ロシア領事館にも勤務した経験もつ京都経済短大の安木先生のいわゆる北方4島の現

状報告も興味深いものでした。択捉へのロシア政府によるかなりの投資がされていると共に、色丹

近辺での台湾によるサンマ乱獲問題があり、日本とロシアでの共同協力が可能となっており、経済

協力での領土問題アプローチの環境づくりへの示唆もありました。

 

 新カラマーゾフの兄弟」を語ると題する

亀山郁夫先生(名古屋外国語大学長、元東京外語大学長?文学者)のお話、私にはよくわから

ないなかった。10年以上前に、映画「カラマーゾフの兄弟」をロシア協会で上映し、鑑賞した

。ロシア文学や芸術に流れるロシア正教?による罪論、精神的葛藤をベースにしたものであり、

難解であった。ロシア人に流れるマゾヒズムなどと表現され、ロシア人の文学観を理解するの

は大変と思いながら聞き入った。9.11テロを機に、そして3.11も体験しながら、

舞台を日本に移して、学長としての仕事をこなしながら、400字詰め原稿用紙で3300枚の執筆

に挑戦された先生の執念には恐れ入った。


ピーステントと演説会

2016-03-21 06:24:02 | 日記

19日はあの強行可決から6ケ月。午前は地域の方と挨拶兼ねて戦争法廃止の署名などお願いに。

わずかだけど戦争に行った、後方こそ危険なんや、安倍は何も分っていない」と怒りの声。初めて

の方から「あら、亀田さん」「??」「ポスターでも、テレビでも見ているわよ。うちの娘も共産党

がいいって」「政党助成金をもらわず、気風がいいって」本当に激励される行動でした。

毎月19日、全国の行動と合わせて四高

記念公園(旧中央公園)でピーステントが開かれ、プラカード持ってのスタンデングアピールや

署名、そして参加者の一口リレートークがおこなわれました。司会から「今日は、参議院選挙予定

で頑張っているお二人が参加されていますので、ご紹介します」とスピーチの機会を頂きました。

私は午前中の戦争体験者の声、2月に参加した署名推進の交流会での若いママさんの活動、北海道

の医療関係機関誌に投稿した知覧飛行場での「本日は雨天なり」では飛行機が戦友が飛ぶことなく、

それで現在も「本日雨天なりと言っている」などの発言の一部を紹介し、戦争法廃止へ全力あげる

決意申し上げました。

雨の中、パレードが始まりました。主催者の

配慮で亀田さんも前へと言われ、柴田さんと並んでのパレ―ド。若者のサウンドとコールに合わせ、

「安保法制絶対反対」「戦争したがる総理は要らない」「野党は共闘」「選挙に行こうよ」など、

リズミカルに声を出しました。

20日は宝達志水町(旧の志雄町と押水町の

合併)で初めての日本共産党演説会。オープニングは「勝利太鼓」、演じるのは芸達者な志賀町議と

津幡町議のお二人。国会議員がこられると聞き、副町長が歓迎のご挨拶。記念講演した井上さとし

参議院議員は、3.11以後国民の意識が変わり声を出し、モノ言う市民の声が政治を動かしている

と強調、「保育園落とされたのは私」の投稿、原発の司法判断、沖縄の住民の運動など紹介しました。

自民党は野党に転落した時と同じ得票なのに多数もっているのは、民主に投票した方が投票に行かな

かったのと、小選挙区制のお陰、そして今や野党共闘を希望・支持する方が過半数となっている劇的

な変化を指摘し、野党+市民運動での勝利の今回の選挙の意義と、そのためにも日本共産党をと訴え

ました。

業者からの商売の悲鳴、原発許さない、TPPで農業

と地域が破壊される、生活できる年金をなど、各分野からも1分間スピーチも。子育て真っ最中のたけだ良介

比例候補は、全国遊説での体験まじえ元気に党議席の値打ちを語り、私からも戦争だけは許せない、生活で

きない、商売やっていけんなど県民の切実な声に応え、戦争法廃止、原発ノー、TPP撤廃などで政治を変えよ

うと訴えました。「頑張って」と握手の中で、なんと珠洲から妹も来ていました


反戦川柳作家との出会い

2016-03-15 16:31:12 | 日記

14日は羽咋市とかほく市で行動でした。20日隣の宝達志水町で演説会(弁士は井上さとし参議院

議員、党参院国対委員長、比例代表たけだ良介さんと私も挨拶します)をするので案内かねて街頭

からの訴えと署名、施設や団体、主だったかたにお願いに回りました。「共産党はよくやった」と

おほめも頂き、野党共闘と国政転換への希望ある話が聞けます。

かほく市では鶴彰企画で尽力いただいたお寺や有力な方にご案内。次の行動

までの時間利用して、地元の高橋市議と一緒にふるさと偉人館にある鶴彰の展示室を初めてお邪魔

しました。反戦川柳作家として有名な鶴彰(つるあきら)の全体像をつかめる資料展示室が会館2階

にあります。運営はボランテイア、全国各地からファンが来られます。私は全く不案内で、2009

年に神山征二郎監督がメガホンとり、出演者も半ばボランテイア的に努力された映画「鶴彰ーこころ

の軌跡」を観るまでは、石川県でこんなに反戦川柳作家として名をはせた人がいるとは知りませんでした。

  鶴彰は日本が中国への侵略戦争に乗り出す時期

に、目覚め、わずか29年でその生涯を終えました。小林多喜二などと同様、時の権力による弾圧に

めげず反戦を貫き、そして若くして命を絶った一人です。最初はロマンチックな句を詠んでいた少

が時代の荒波の中で目覚めていきます。中国への侵略が進む中「万歳とあげて行った手を大陸へおい

て来た」「枯れ芝よ!団結をして春を待つ」などが詠まれます。死に至る時期には「胎内の動き知る

ころ骨(コツ)がつき」なんともいとしい句、「暁を抱いて闇にゐる蕾」「手と足をもいだ

丸太にしてかへし」など、映画鑑賞時に、何度も目にした句でした。

鶴のような若者が反戦、平和を命かけてたたかった、その思いが今、「二度と戦争しない」との体験

者はもとより、戦争知らない世代が起ち上がるに連なっていると実感します。

    

 

1階は町の方のサロンとなっています。この日も女性の方たちが何やら

制作活動とおしゃべりに。また市内各地での訪問活動をし、内灘町に。訪問先の玄関にきれいな

花が。アートフラワーでしょうか。思わず「少しください」とお願いし、頂きました。本日は

ホワイトデー。先日買ったチョコレートに花を添えて、家族へ感謝のお返しです。


「3.11」を忘れない

2016-03-13 05:46:07 | 日記

5年前の3月11日は、県議会で新年度予算審議を傍聴していました。議会も揺れ、その

後テレビで惨状を見て、この世にこんなことあるのか、驚きました。

全国各地から支援のボランテイア活動

が始まりました。日本共産党もすぐ支援活動にはいり、私は7月上旬に現地の方々に迷惑

かけず自分たちで運営するため、受け入れ要員として働くべく、釜石市にある共産党事務

所に派遣され、3週間、北陸信越地域の共産党中心としたボランテイア受けいれの活動に

参加しました。金沢から自分の車運転し、約9時間かけて現地到着、翌日は朝から車で、

歩いて現地の事情や地理など知ることから始めました。

 

毎日4時頃起きて、活動し、10時頃

に眠る生活。毎日のように各地から支援物資が寄せられ、事前にチラシ案内を配り、数十

か所ある仮設住宅広場での「青空市」を開催します。被害を受けられた方がたの被災状況

と要望をお聞きする活動で「うちの夫を奪った海が憎い」「今も流された実家の方向いて

寝れない」「バス停まで歩くの大変、便数増やしてほしい」「下着類があると助かる」

様々な要望をお聞きしました。仮設に入っても他人ばかり、悩みなど交流できればと「

茶っこ」と呼ばれるサロン活動もしました。ボランテイア参加の人たちと現地被災者との

交流、被災現場の案内、1日おきに支援活動状況知らせるニュース発行など。自ら被災し

ているのに世話をやく、全国から支援活動する共産党の献身的な活動に、現地の方から感

謝の言葉も頂きました。

東北から避難された住民の方たちと交

流が続けられています。5年目の11日、旧県庁のしいのき前で「キャンドルナイト」が

企画され参加しました。福島などから避難された方々が、今の思いを言葉で、音楽で語っ

てくれます。綾部市に避難され、金沢での発表に参加されたおかあさんの方言による詩の

朗読を聞きながら、5年前の支援活動を思いおこしていました。てづくりのキャンドルナ

イト企画に参加した人は被災者支援、ともに生きる、原発は要らないなど、それぞれの思

いをめぐらしたことでしょう。

5年前に比べて「生活が苦しい」と答え

る方が7割いる、しかも年々増えているのアンケートは、道路などインフラが整備されても、

生活と生業がまったく満足できるものでないことを示しています。むしろ精神的負担も加わ

り、関連死が増え、特に原発被害の福島で多いと聞きます。一方的な線引きなどで支援を打

ち切るのでなく、国と特に電力会社は最後の一人まで援助する義務があると思います。

数日前に出た高浜原発運転停止の判決は、被災者の方に小さくない希望も与えてくれた画期

的な判決だと思います。被災者の復興と原発なくせの思いを強くした一日でした。