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雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

二条の姫君  第百二回

2015-07-24 08:38:59 | 二条の姫君  第三章
          第三章  ( 二十八 )

石清水八幡宮での七日間の参籠(サンロウ)を終えますと、姫さまはそのまま祇園の社に参られました。
「今となっては、この世に残る思いもないので、三界の家を出でて解脱の門にお入れください」
と、姫さまが願われたお気持ちは本心からでございましたが、今年は故法親王の三年忌にあたっているので、東山の聖のもとで、七日法華講讚を五種の行(ギョウ)にて行っていただきました。
姫さま御自身も、昼はその聴聞に入り、夜は祇園に参りなどして、結願の日は法親王が露と消えられた日でございますから、打ち添えられる鐘の音に格別の思いに迫られ涙されておられました。
『 折々の鐘の響きに音を添えて 何と憂き世になほ残るらむ 』
この御歌は、この時の姫さまの正直なお気持ちだったのではないでしょうか。

この前生まれました御子は、世間の目を恐れて隠し育てていることも憚られますが、鬱々としたお気持ちの安らぎを求められて、姫さまはお会いに参られたりしておりました。
御子はすくすくとお育ちになっていて、走りまわったり、片言を言ったりして、何の憂さもつらさもないように見受けられるのが、姫さまには、かえって辛い思いにさせられるご様子でございしました。

そして、この年の秋には兵部卿までが露と消えられてしまったのでございます。(原作者の思い違いか故意か分からないが、死去の年は史実とは違う)
姫さまに辛く当たられることが多かった兵部卿四条隆親殿は、そうは申しましても今は姫さまに最も身近な血縁の御方でございましたから、その悲しみが小さいはずなどございません。
ただ、姫さまは、御所を退去なされるなど姫さま御自身の悲しみに追われ、大切な御方をお見送りしてしまうことの重大さを、今一つ感じられていないご様子にも見えました。

少し時間が過ぎ、様々な煩わしいことが少し落ち着き、春の長い日をひたすら勤行に没頭されている時などには、亡き母の縁に繋がる人としてはただ一人兵部卿が生きながらえていたのに、今さらのように哀れに思いだされると姫さまが漏らされたことがございました。
姫さまがようやく平常心を取り戻してきたのだと嬉しく思いますとともに、大切な後見者を失った姫さまのお気持ちを思いますと、その切なさが痛いほどに伝わって参るのです。

あちらこちらの神社の桜が、ようやく盛りを迎える頃ともなりますと、
「牛頭天王(ゴズテンオウ・インド祇園精舎の守護神)の御歌として
『 神垣に千本(チモト)の桜花咲かば 植ゑ置く人の身も栄えなむ 』
という示現(ジゲン・神のお告げ)があった」
ということで、文永の頃(十数年前を指す)、祇園社にたくさんの桜の木を植えることがあったなどと、姫さまがお付きの人たちにお話されました。

姫さまは、まことに神の託宣されたことなので、わたしもその御恩をこうむるべき身なので、枝や根だといって区別があるはずがないのでと思い立たれました。
檀那院の公誉僧正が阿弥陀院の別当でいらっしゃったので、そこにおられる親源法印は姫さまとご縁戚で音信を交わされておられましたので、その御堂の桜の枝を一枝請うて、二月の初午の日に、執行権の法印に紅梅色の単衣文・薄衣を御布施として、祝詞(ノリト)を唱えていただき東の経所の前に捧げられましたが、その時、縹色の薄様の短冊に次の様な御歌を詠まれ、桜の枝に付けられました。
『 根なくとも色には出でよ桜花 契る心は神ぞ知るらむ 』

この枝が根付いて花が咲くのを見るのは、神の御恩を願う心がいつまでも虚しくないだろうとお考えになられたことでございました。
その後も姫さまは、千部経を初めてお読みになるなどされておりましたが、いつも自室に籠ってのことでは何かと憚られることもあり、祇園の社に近い宝塔院の後ろに二つある庵の東の方をお選びになって、この年は此処で年の瀬をお迎えになられました。

     * * *





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