第三章 ( 二十九 )
次の年の正月末に、姫さまに大宮院(後深草院・亀山院の生母)から御手紙が届きました。
「北山の准后様の九十の御賀を、この春行おうと思い準備を急いでいる。そなたの里住みも長くなってしまったが、何の不都合なことがあろうか。打出での人数(ウチイデノヒトカズ・女房が衣の裾や袖口を御簾の下から出して美しく見せるが、その要員のこと)に加えようと考えている。准后の御方に伺候しなさい」
との御申し付けでありました。
しかし、姫さまは、
「当然伺候させていただくべきでございますが、御所さまがご不快なご様子なので里住みをいたしておりますのに、今さら厚かましく、打出で衣に加わることが出来ましょうか」
とご返事なさいましたが、
「万事差し障りなどありますまい。准后様の御事は、特に幼い時から故大納言典侍(ダイナゴンノスケ・二条の生母)といい、そなたといい、わが子同然だったのだから、このような一世一代の御祝賀にそなたがお世話申し上げるのに、何の不都合なことなどありますか」
などと、女院自らがいろいろと仰ってくださいましたので、ようやく姫さまも参上されるようご返事申し上げられました。
祇園の社への参籠の日数は四百日を超えているので、帰ってくるまでの間は代人を籠らせておくことになりました。
西園寺実兼大納言殿が、大宮院の御指図を受けて車などの手配をして下さいました。
このところはすっかり山賤(ヤマガツ)となってしまって、などと姫さまはお笑いになり、久々の晴々しい装いに戸惑われておられましたが、紅梅色の三つ衣に桜萌黄色の薄衣を重ねられたお姿は、変わらぬ艶やかさでございました。
北山邸に参上なさいますと、やはり思っていた通りの絢爛の晴れの御席でございました。
御所さま、亀山院、東二条院、それにまだ姫宮であられた遊義門院(後深草院と東二条院の娘)方は、すでにおいでになっているようでした。
新陽明門院(亀山院女御)は、忍びやかに御幸されました。
御賀は二月の末に行われるということで、二十九日に後宇多天皇の行幸、春宮煕仁親王の行啓がございました。
まず、行幸は、丑三つ(午前二時頃)の頃でございました。門の前に御輿を据えて、神司が幣(ヌサ)を差し上げ、雅楽司(ウタノツカサ)は雅楽を演奏されます。
大宮院に仕える左衛門督西園寺公衡(西園寺実兼の子)殿が参って、帝の御到着を申し上げた後、御輿を中門に寄せました。三位中将二条兼基殿が、中門の内から剣璽の役(ケンジノヤク・三種の神器のうちの宝剣と神璽を捧持する役)を勤められました。
そして、春宮(トウグウ)の行啓となりました。まず、門の下まで筵道(エンドウ・裾が汚れないように敷かれる貴人用のむしろ)が敷かれました。臨時に設けられる御所には、奉行四条顕家殿、関白鷹司兼平殿、左大将鷹司兼忠殿、三位中将二条兼基殿らが参られました。
春宮傅である左大臣二条師忠が御車に同車されました。
* * *
次の年の正月末に、姫さまに大宮院(後深草院・亀山院の生母)から御手紙が届きました。
「北山の准后様の九十の御賀を、この春行おうと思い準備を急いでいる。そなたの里住みも長くなってしまったが、何の不都合なことがあろうか。打出での人数(ウチイデノヒトカズ・女房が衣の裾や袖口を御簾の下から出して美しく見せるが、その要員のこと)に加えようと考えている。准后の御方に伺候しなさい」
との御申し付けでありました。
しかし、姫さまは、
「当然伺候させていただくべきでございますが、御所さまがご不快なご様子なので里住みをいたしておりますのに、今さら厚かましく、打出で衣に加わることが出来ましょうか」
とご返事なさいましたが、
「万事差し障りなどありますまい。准后様の御事は、特に幼い時から故大納言典侍(ダイナゴンノスケ・二条の生母)といい、そなたといい、わが子同然だったのだから、このような一世一代の御祝賀にそなたがお世話申し上げるのに、何の不都合なことなどありますか」
などと、女院自らがいろいろと仰ってくださいましたので、ようやく姫さまも参上されるようご返事申し上げられました。
祇園の社への参籠の日数は四百日を超えているので、帰ってくるまでの間は代人を籠らせておくことになりました。
西園寺実兼大納言殿が、大宮院の御指図を受けて車などの手配をして下さいました。
このところはすっかり山賤(ヤマガツ)となってしまって、などと姫さまはお笑いになり、久々の晴々しい装いに戸惑われておられましたが、紅梅色の三つ衣に桜萌黄色の薄衣を重ねられたお姿は、変わらぬ艶やかさでございました。
北山邸に参上なさいますと、やはり思っていた通りの絢爛の晴れの御席でございました。
御所さま、亀山院、東二条院、それにまだ姫宮であられた遊義門院(後深草院と東二条院の娘)方は、すでにおいでになっているようでした。
新陽明門院(亀山院女御)は、忍びやかに御幸されました。
御賀は二月の末に行われるということで、二十九日に後宇多天皇の行幸、春宮煕仁親王の行啓がございました。
まず、行幸は、丑三つ(午前二時頃)の頃でございました。門の前に御輿を据えて、神司が幣(ヌサ)を差し上げ、雅楽司(ウタノツカサ)は雅楽を演奏されます。
大宮院に仕える左衛門督西園寺公衡(西園寺実兼の子)殿が参って、帝の御到着を申し上げた後、御輿を中門に寄せました。三位中将二条兼基殿が、中門の内から剣璽の役(ケンジノヤク・三種の神器のうちの宝剣と神璽を捧持する役)を勤められました。
そして、春宮(トウグウ)の行啓となりました。まず、門の下まで筵道(エンドウ・裾が汚れないように敷かれる貴人用のむしろ)が敷かれました。臨時に設けられる御所には、奉行四条顕家殿、関白鷹司兼平殿、左大将鷹司兼忠殿、三位中将二条兼基殿らが参られました。
春宮傅である左大臣二条師忠が御車に同車されました。
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