雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

言葉のティールーム   第十話

2009-12-26 11:47:49 | 言葉のティールーム

『 飯と作すに足らざれば則ち粥と作す 』


私は、この言葉の歯切れの良さが好きです。
前回の言葉もそうなのですが、言葉の持つ意味もすばらしいと思うのですが、何か呪文でもとなえているような響きが好きなのです。


この言葉にはずいぶん前に出合っていまして、良い言葉だと思ってノートに書き留めていたのですが、それっきりになっていました。私は好きな言葉に出合った時には、できるだけ書き留めておくようにしているのですが、その殆んどがどこかに埋もれたままになっています。


この言葉も全く同じ状態にありました。
出合った時にはそれなりの感動をもって読んだのですが、その後見直すこともなく書棚の隅に埋もれていました。それでも、これまでに何回かこの言葉を思いだしたことがありました。
正確に覚えていたわけではないのですが、ああいう言葉もあったなあ、という程度の思いだし方なのですが、自分の気持ちを律したことがあったように思っています。


今になって考えてみますと、この言葉が頭に浮かんだのは、人生の岐路に立った時とか、特別な決断を迫られた時、といった大層な折ではなかったと思われます。
むしろ、比較的順調な日を過ごしている時に、少々調子にのり過ぎたかなと自己嫌悪に陥るような時でした。例えば、自分の力を過信して仲間を押し退けるような仕事をしてしまったあとなどの、何ともほろ苦い思いに襲われるような時でした。その仕事がうまく行った時も、失敗してしまった時も含めて、後味の悪い、惨めな思いをしたことが何度もありました。


私はこの言葉を思いだし、なぜもっと謙虚に行動することができなかったのかと反省したものですが、反省はその時限りのことで、少し時間が経ち、ほろ苦いものが薄れてきた頃には、また同じ過ちを犯してしまう・・・、そのような周期を繰り返してきたように思います。


私が記録している部分を全部書いてみます。
  ハン  ソナ                   ナ
  飯に備わることが出来れば則ち飯と作し、
                  
シャク 
  飯と作すに足らざれば則ち粥と作し、
                  
ベイトウ
  粥と作すに足らざれば則ち米湯と作す。


中国の言葉が続きますが、これも中国宋時代の曹洞宗を代表する指導者である、芙蓉道楷(フヨウドウカイ)という方の言葉だそうです。この言葉を書き抜いた書籍がどのようなものであったのか記憶がないのですが、おそらく名言集のようなものだったと思います。
私は、この言葉以外に芙蓉道楷の文献を読んだことがありませんし、人物について勉強したこともありませんので、この言葉がどのような場面で示されたものなのかは分かりません。
従いまして、この部分だけを独立したものとして話を進めさせていただきます。


言葉の意味は、
   ご飯を作るだけの米が準備できる時は、ご飯を作って食べ、
   ご飯を作るのに米が足らないのなら、粥を作って食べ、
   粥を作るのにも米が足らないのなら、米湯を作って食べる。
といった意味です。

禅僧の教えですから、托鉢で得たものを中心とした生活について教えたものかもしれません。
しかし、禅師が生きた時代から九百年を経て今なお伝えられているということは、私たちが生きてゆくうえでの教訓として多くの人が感じ取っている証左だと思います。


禅師の教えを繰り返しますと、ご飯を作ることができる時は、ご飯を食べられることを感謝しなさい。ご飯にするだけの米がない時は、お粥を作って食べればよろしい。お粥を作るにも米が足らないのなら、米湯 (重湯のようなものでしょう) にすれば、十分飢えは凌げますよ・・・。概ねこのように教えられていると思います。


そして、そのいずれの場合でも、感謝の気持ちで食べなさいと教えられていると思います。さらに、この教えのバックボーンになっているものは、得るものが少なかったことを理由に人減らしをするという発想はなく、たとえお粥や重湯になっても全員を飢えから守ろうとする決意だと思うのです。


禅師の教えに現在の私たちの社会を重ねてみますと、考えさせられることが少なくありません。
私たちは、ご飯を作るだけの米がある時にご飯を食べるのは当たり前のことで、少し足らないからといってお粥になるなどとても許せなく、それが重湯になどなろうものなら、恨みを超えて呪うほどの気持ちになってしまう・・・、のではないでしょうか。


あるいはまた、どんな苦境に陥っても、自分の取り分だけは最後まで守ることに汲々としていて、仲間の欠点や無能さを責め立ててしまう・・・。悲しいけれど、これが私たちの実態ではないでしょうか。
さらに、このような考え方は昨今の世相にも色濃く表れていて、弱者を切り捨てていくような考え方が、まるで社会進歩の一現象だと錯覚している人が少なくないように思えてならないのです。


もっとも、「私たち」という言葉は、便利というかずるいというか、自分の不都合を漠然とさせるために使っていることは認めざるをえませんのですが・・・。
では、私個人のことに限るとすれば、この言葉を思い起こすのは、先にも書きましたように、いささか思いあがった行動のあとの挫折感を味わっている時が殆んどでした。そして、今になって思えば、間違いなく錯覚していたと思います。


私たちは何のために働くのか・・・、などということになると難しくなりますが、仕事に対して正当な評価を得たいという気持ちは誰にでもあることだと思います。
直接的に経済的なものやその他の利益を獲得したいというほどの意識はないとしても、自分の仕事や成果とについて、その努力や苦労を知って欲しいという気持ちはあると思うのです。


「飯」にあたると思う仕事を成し遂げた時に「飯」として評価された時、私たちはどう感じるのでしょうか。感謝の気持ちでしょうか、当然だという気持ちでしょうか、それとも、もう少し評価しろよ、という気持ちでしょうか。
「飯には少し足らないな」と思う仕事をした時はどうでしょうか。「粥」という評価に対して、私たちはどのような気持ちを抱くでしょうか。
「とても飯には無理だ」と思う仕事をしてしまった時はどうでしょうか。
「米湯」という評価を、私たちはどう受け取るのでしょうか。


私たちは、自分に与えられる評価に対して、常に不満を抱いているのではないでしょうか。仲間の無能や不手際が、折角の自分の仕事を台無しにしていると思うことがあるのではないでしょうか。
私たち全てとは申しませんが、大部分の私たちは、自分に対する評価は常に甘くなっているものです。しかし、そのことに気付くことは誠に難しく、自分の評価には不満を持ち、仲間のミスを責め立てているのではないでしょうか。
そして、もしあなたが指導的な立場にあるとしたら、「たとえ米湯となっても仲間を飢えから守る」気概を見失ってはいないでしょうか。


私は、自分の半生を振り返ってみた時、感謝することの少なかったことに驚きを感じます。皆無というわけではありませんが、その少なさに身がすくむ思いです。
感謝らしい言葉は、それこそ数限りなく口にしてきました。
「口では感謝の言葉を言いながら、腹の中では舌を出していた」というほど根性が曲がっていたとは思わないのですが、今になって思えば、口にする感謝の言葉の軽さに、身が縮むほどの恥ずかしさを感じます。


仲間のために良かれと努力したことも少なくなかったとの自負はあります。しかしその努力は、自分は安全な場所に身をおいて、長い竿を差し出していたに過ぎなかったように思われることが殆んどです。

感謝をしたり、恨んでみたり・・・、それぞれの場面を思い浮かべてみて、自分としては真剣な気持ちに偽りはなかったとも思うのですが、感謝すべき多くの機会を当然のように受け取り、米湯どころか粥になることさえ恐れていた自分の姿に、じくじたるものがあるのも事実です。


私たちは、あまりにも感謝する気持ちが少ない日々を送ってしまっているのではないでしょうか。
「私たち」というずるい表現をあえてしますが、あなたも含めた私たちは、感謝する気持ちがあまりにも少ないのではないでしょうか。


九百年前の高僧の教えを安易に解釈することは良くないことかもしれませんが、私たちは禅師の言葉を借りて、もう少し感謝する気持ちを持てるように学ぶことが必要だと思うのです。
それは、粥になることを容認する心を育てるということです。
「米湯」まで頑張ることはできなくても、せめて「粥」を受け入れることができる心を育てることが、感謝することができる心を育てることにつながるのです。
感謝することをそれほど難しく考えないで、人の好意や情けに対して、今よりほんの少しだけ素直に受け取ることから始めるのです。


「飯と作すに足らざれば則ち粥と作し」をもって感謝することができる心を育てることは、悠々として豊かな心を育てる指針の一つのように思うのです。


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