運命紀行
女の意地
「御志はうれしゅうございますが、お前さまは、お前さまの御国をしっかりと治めなさいませ。母者のことを心にかけて下さり、有り難く存じますが、私も高齢の身となりました。この地で安寧な日々を過ごさせていただいておりますゆえ、なにとぞご心配賜りませぬように。
それに、時が経ったとはいえ、私にも女の意地とかもございますゆえ・・・」
利隆は、母からの返答に大きく息をついた。ようやく名実ともに太守としての地位を得、父も故人となった今なら、遥か遠国にある母を招くことが可能だと考えたのだが、きっぱりと拒絶を伝える文面であった。
「私にも女の意地とかもございますゆえ・・・」
その言葉には、幼くして別れた母の、高潔な面影が今も変わらず保たれていることが偲ばれた。
利隆は、寂しく微笑み、母の手紙を折りたたんだ。
* * *
利隆が、母の糸姫と別れたのは、十歳になった頃のことであった。父である池田輝政と離別することとなったためである。
糸姫の父は、摂津国多田源氏の末裔を名乗る豪族中川清秀である。群雄が割拠する摂津にあって茨木城主として五万石を領していた。
輝政の父は、清和源氏の流れをくむ豪族とされる池田恒興である。織田信長の乳兄弟でもあり美濃に十三万石を領有していた。
共に名門の血統を名乗る家柄であり、領有する国土は池田家が若干上回っているとはいえ、輝政は嫡男ではなく似合った家柄といえる。
二人が結婚したのは、天正十年(1582)かその翌年早くのことと考えられが、本能寺の変が天正十年六月二日のことであり、世相を考えるとそれより前だったのかもしれない。
いずれにしても、戦乱の続く中、輝政が十八、九歳、糸姫は少し年下だっと考えられる。
糸姫が嫁いでから、おそらく一年も経たないうちに、父の清秀が戦没する。まだ四十二歳という働き盛りであり、中川家にとっては不運な戦没であった。
本能寺の変の後は、清秀は秀吉陣営に属し、秀吉が柴田勝家と雌雄を決することになった賤ヶ嶽の合戦においても出陣したが、この戦いで討死にしたのである。この合戦における柴田勢の敗因としてあげられるものに、豪勇の武将佐久間盛政の無謀な突進が挙げられることが多いが、中川清秀はこの猛攻のため討死してしまったのである。
その後の秀吉の出世を思うと、清秀の討死は中川家にとってかえすがえすも無念なことであったろう。
清秀の家督は嫡男の秀政が継いだが、この人物もひとかどの武将であったらしい。小牧・長久手の戦い、四国征伐で功績を上げ、播磨三木城十三万石に加増されている。
ところが、その後の朝鮮の役で二十五歳の若さで戦陣に散ってしまったのである。この時の死は、敵軍の待ち伏せに遭って討たれたものであったが、戦死として報告された。戦闘中の死は名誉の死であり、家督相続や報償の対象にもなったが、待ち伏せに遭うなど戦う意思のない中での死は評価されることなく、場合によっては家督相続さえ危うくなるのである。
重臣たちは腐心の上での報告であったが、これが秀吉の知るところとなり怒りを買った。お家断絶の話まであったようだが、父清秀の功績に免じて、秀政の弟の秀成に家督相続が認められた。但し、領地は半減されて六万六千石となった。文禄元年(1592)と改まった年の瀬の頃であったろうか。
一方の池田家は、秀吉傘下で順調な出世の道を進んでいったが、やはり思いがけない不運に遭遇している。
小牧・長久手の戦いは、秀吉と家康が戦った唯一の合戦であるが、大軍が向かい合いはしたが、何とも不思議な戦いでもあった。戦力面で圧倒的に優位にあった秀吉軍であるが、相手は家康というより織田信雄を家康が援けるという形であり、主筋を討つのを憚る面があった。家康にとっても、織田家への義理はあるが日の出の勢いの秀吉勢とまともにぶつかる愚は避けたいというのが本音であった。
この戦いは、秀吉と信雄が和睦することになり、何とはなしに引き分けに終わったような戦いであった。
その中で、池田恒興らが率いる一軍が家康軍の背後を突くという戦略に動き、局地的な激戦が行われた。ここでは、秀吉勢が手痛い損害を出しており、池田恒興は嫡男と共に討死してしまったのである。
池田家にとっては、主人と嫡男を失うという不運であったが、これにより、輝政は池田家の家督を相続することになったのである。
天正十八年(1590)の小田原の役の後、輝政は吉田十五万二千石に加増された。糸姫は実家を凌ぐ身代の正室となり、嫡男も生まれていて幸せな日々を迎えていた。
そこに、督姫という女性が登場してくるのである。
督姫は徳川家康の次女である。永禄八年(1565)の生まれで、輝政より一歳年下、糸姫と同年か少し上くらいである。
十九歳の頃、北条氏直のもとに嫁ぎ、二女を儲けている。旧織田遺領である甲斐・信濃を徳川が、上野を北条が統治することで和睦が成立し、その条件の一つとしての婚姻であった。
天正十八年(1590)、北条氏は秀吉により滅ぼされる。氏直は義父である家康の嘆願により一命を助けられ高野山に流された。そのご、赦免された氏直のもとに督姫は赴くも、翌年に氏直は死去したため、父のもとに戻っていた。
その督姫と、輝政の婚姻が画策されるようになるのである。
秀吉の計らいによるものとも伝えられているが、秀吉にすれば家康に恩を売る思惑からのものかもしれない。家康にしても、嫁ぎ先を滅ぼしたことから督姫に対する謝罪のような気持ちもあったかもしれないが、輝政との婚姻が徳川の将来にとって悪くない話であるとの打算もあったと考えられる。
輝政にしても、天下人の秀吉と、その次の実力者である家康双方からの申し出を拒絶することは難しかったであろうが、池田家の将来への打算もなかったとは言えまい。
しかし、そこには大きな問題があった。
家康の娘を嫁に迎える以上は、第二夫人などというわけにはいかなかった。当然正室として迎えることになるが、輝政には、糸姫という嫡男さえ儲けているれっきとした正室がいた。嫁として何の不満もなく平和な家庭が築かれていた。
しかし、戦乱の世を生き抜いていく手段は、戦場にだけあるものではなかった。婚姻による家と家との結び付きも重要な戦略であった。
輝政が糸姫に離婚を申し出たのは、文禄三年(1593)の頃であったのだろうか。
この頃、糸姫の実家中川家は、大変な窮地にあった。糸姫の父清秀の後を継いでいた秀政の朝鮮の役での戦没に絡み、秀吉の怒りを買い、ようやく領地半減とされて弟の秀成に家督相続されたばかりの頃である。
家康の娘を嫁に迎えるためだとはいえ、落ち目にある長年の妻の実家に対する無常な仕打ちに、中川家の若き当主秀成は激怒したという。
糸姫は、十歳になったばかりの嫡男利隆を残して池田家を去った。その時の状況について伝えられているものはないが、想像するだけで胸に迫るものがある。
中川秀成は、その後、豊後岡城七万石に加増転封となり、糸姫もそちらに移り生涯を過ごしたようである。
輝政のもとに残した一子利隆は、紆余曲折を経た後に輝政の死後家督を相続し姫路城主となった。
利隆は、母を引き取ることを考えたともいわれるが実現することはなかった。
御家の事情で婚家を追われた糸姫に哀れを感じるが、督姫もまた戦国の悲哀を背負った花嫁といえる。
( 完 )
女の意地
「御志はうれしゅうございますが、お前さまは、お前さまの御国をしっかりと治めなさいませ。母者のことを心にかけて下さり、有り難く存じますが、私も高齢の身となりました。この地で安寧な日々を過ごさせていただいておりますゆえ、なにとぞご心配賜りませぬように。
それに、時が経ったとはいえ、私にも女の意地とかもございますゆえ・・・」
利隆は、母からの返答に大きく息をついた。ようやく名実ともに太守としての地位を得、父も故人となった今なら、遥か遠国にある母を招くことが可能だと考えたのだが、きっぱりと拒絶を伝える文面であった。
「私にも女の意地とかもございますゆえ・・・」
その言葉には、幼くして別れた母の、高潔な面影が今も変わらず保たれていることが偲ばれた。
利隆は、寂しく微笑み、母の手紙を折りたたんだ。
* * *
利隆が、母の糸姫と別れたのは、十歳になった頃のことであった。父である池田輝政と離別することとなったためである。
糸姫の父は、摂津国多田源氏の末裔を名乗る豪族中川清秀である。群雄が割拠する摂津にあって茨木城主として五万石を領していた。
輝政の父は、清和源氏の流れをくむ豪族とされる池田恒興である。織田信長の乳兄弟でもあり美濃に十三万石を領有していた。
共に名門の血統を名乗る家柄であり、領有する国土は池田家が若干上回っているとはいえ、輝政は嫡男ではなく似合った家柄といえる。
二人が結婚したのは、天正十年(1582)かその翌年早くのことと考えられが、本能寺の変が天正十年六月二日のことであり、世相を考えるとそれより前だったのかもしれない。
いずれにしても、戦乱の続く中、輝政が十八、九歳、糸姫は少し年下だっと考えられる。
糸姫が嫁いでから、おそらく一年も経たないうちに、父の清秀が戦没する。まだ四十二歳という働き盛りであり、中川家にとっては不運な戦没であった。
本能寺の変の後は、清秀は秀吉陣営に属し、秀吉が柴田勝家と雌雄を決することになった賤ヶ嶽の合戦においても出陣したが、この戦いで討死にしたのである。この合戦における柴田勢の敗因としてあげられるものに、豪勇の武将佐久間盛政の無謀な突進が挙げられることが多いが、中川清秀はこの猛攻のため討死してしまったのである。
その後の秀吉の出世を思うと、清秀の討死は中川家にとってかえすがえすも無念なことであったろう。
清秀の家督は嫡男の秀政が継いだが、この人物もひとかどの武将であったらしい。小牧・長久手の戦い、四国征伐で功績を上げ、播磨三木城十三万石に加増されている。
ところが、その後の朝鮮の役で二十五歳の若さで戦陣に散ってしまったのである。この時の死は、敵軍の待ち伏せに遭って討たれたものであったが、戦死として報告された。戦闘中の死は名誉の死であり、家督相続や報償の対象にもなったが、待ち伏せに遭うなど戦う意思のない中での死は評価されることなく、場合によっては家督相続さえ危うくなるのである。
重臣たちは腐心の上での報告であったが、これが秀吉の知るところとなり怒りを買った。お家断絶の話まであったようだが、父清秀の功績に免じて、秀政の弟の秀成に家督相続が認められた。但し、領地は半減されて六万六千石となった。文禄元年(1592)と改まった年の瀬の頃であったろうか。
一方の池田家は、秀吉傘下で順調な出世の道を進んでいったが、やはり思いがけない不運に遭遇している。
小牧・長久手の戦いは、秀吉と家康が戦った唯一の合戦であるが、大軍が向かい合いはしたが、何とも不思議な戦いでもあった。戦力面で圧倒的に優位にあった秀吉軍であるが、相手は家康というより織田信雄を家康が援けるという形であり、主筋を討つのを憚る面があった。家康にとっても、織田家への義理はあるが日の出の勢いの秀吉勢とまともにぶつかる愚は避けたいというのが本音であった。
この戦いは、秀吉と信雄が和睦することになり、何とはなしに引き分けに終わったような戦いであった。
その中で、池田恒興らが率いる一軍が家康軍の背後を突くという戦略に動き、局地的な激戦が行われた。ここでは、秀吉勢が手痛い損害を出しており、池田恒興は嫡男と共に討死してしまったのである。
池田家にとっては、主人と嫡男を失うという不運であったが、これにより、輝政は池田家の家督を相続することになったのである。
天正十八年(1590)の小田原の役の後、輝政は吉田十五万二千石に加増された。糸姫は実家を凌ぐ身代の正室となり、嫡男も生まれていて幸せな日々を迎えていた。
そこに、督姫という女性が登場してくるのである。
督姫は徳川家康の次女である。永禄八年(1565)の生まれで、輝政より一歳年下、糸姫と同年か少し上くらいである。
十九歳の頃、北条氏直のもとに嫁ぎ、二女を儲けている。旧織田遺領である甲斐・信濃を徳川が、上野を北条が統治することで和睦が成立し、その条件の一つとしての婚姻であった。
天正十八年(1590)、北条氏は秀吉により滅ぼされる。氏直は義父である家康の嘆願により一命を助けられ高野山に流された。そのご、赦免された氏直のもとに督姫は赴くも、翌年に氏直は死去したため、父のもとに戻っていた。
その督姫と、輝政の婚姻が画策されるようになるのである。
秀吉の計らいによるものとも伝えられているが、秀吉にすれば家康に恩を売る思惑からのものかもしれない。家康にしても、嫁ぎ先を滅ぼしたことから督姫に対する謝罪のような気持ちもあったかもしれないが、輝政との婚姻が徳川の将来にとって悪くない話であるとの打算もあったと考えられる。
輝政にしても、天下人の秀吉と、その次の実力者である家康双方からの申し出を拒絶することは難しかったであろうが、池田家の将来への打算もなかったとは言えまい。
しかし、そこには大きな問題があった。
家康の娘を嫁に迎える以上は、第二夫人などというわけにはいかなかった。当然正室として迎えることになるが、輝政には、糸姫という嫡男さえ儲けているれっきとした正室がいた。嫁として何の不満もなく平和な家庭が築かれていた。
しかし、戦乱の世を生き抜いていく手段は、戦場にだけあるものではなかった。婚姻による家と家との結び付きも重要な戦略であった。
輝政が糸姫に離婚を申し出たのは、文禄三年(1593)の頃であったのだろうか。
この頃、糸姫の実家中川家は、大変な窮地にあった。糸姫の父清秀の後を継いでいた秀政の朝鮮の役での戦没に絡み、秀吉の怒りを買い、ようやく領地半減とされて弟の秀成に家督相続されたばかりの頃である。
家康の娘を嫁に迎えるためだとはいえ、落ち目にある長年の妻の実家に対する無常な仕打ちに、中川家の若き当主秀成は激怒したという。
糸姫は、十歳になったばかりの嫡男利隆を残して池田家を去った。その時の状況について伝えられているものはないが、想像するだけで胸に迫るものがある。
中川秀成は、その後、豊後岡城七万石に加増転封となり、糸姫もそちらに移り生涯を過ごしたようである。
輝政のもとに残した一子利隆は、紆余曲折を経た後に輝政の死後家督を相続し姫路城主となった。
利隆は、母を引き取ることを考えたともいわれるが実現することはなかった。
御家の事情で婚家を追われた糸姫に哀れを感じるが、督姫もまた戦国の悲哀を背負った花嫁といえる。
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