雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

二条の姫君  第十二回

2015-06-30 09:47:52 | 二条の姫君  第一章
          第一章  ( 十一 )


二月の初め頃になりますと、法皇さまの御病状は、もう時間の問題というご様子でありました。
九日には、幕府の京都の長官である南・北の六波羅探題がお見舞いに参上されました。お見舞いのご様子は、関東申次の要職にある西園寺実兼大納言殿が御所さまにご報告されました。
二条の姫君は、雪の曙殿とお慕い申し上げている大納言殿とは、ほんの少し視線を交わす程度のことだけで、公式の場でございますから、それ以上のお話など望めるはずもありません。

十一日には亀山天皇の行幸があり、十二日はご逗留され、十三日にはご還御と大騒ぎではありましたが、大井殿の御所の内はしめやかで、姫さまたち女房方の話される声も密やかなものになっています。
御所さまも弟君でもあられる天皇とご対面なされましたが、お互いに涙にむせんでおられ、少し離れて伺候している人々も皆が皆涙を浮かべておりました。

そのような時に、十五日の酉の刻(午後六時頃)の頃に、都の方角におびただしい煙が立っているのが見えました。
「どなたの家が焼けているのだろう」
と話しているうちに、
「六波羅探題の南方、式部大輔時輔殿が討たれたそうです。その屋敷が焼かれた煙です」
との報告がありました。あまりにも儚い出来事です。

九日には法皇さまの御見舞いに参られ、今日ともしれぬ法皇さまに先立って亡くなられるなんて、この世が無常であることは今に始まったことではないけれど、まことに哀れな出来事でございました。
その法皇さまは、十三日の夜からは、物を仰せになることもほとんどなくなったとのことですから、このような無常も、ご存じございませんでしょう。

そして、十七日の朝からは、御容態が急変と大騒ぎとなりました。
臨終の際の導師となる御善知識には経海僧正、また往生院の長老も参上し、さまざまな念仏をお勧めし、
「今生においては、十善を行い帝王の位に就かれ百官にかしずかれたのですから、黄泉路も後生もご心配ありますまい。早く上品上生の台(ジョウボンジョウショウのウテナ・極楽往生の九段階のうちの最上位)にお移りになられて、そして娑婆世界の故郷に残された衆生をもお導き下さい」
などと、さまざまにご説教され、教化し申し上げたりされましたが、法皇さまは三種の愛着心(妻子等への愛着、自身の命への愛着、善い所に生まれ変わりたいという愛着、の三つ)に執着されて、懺悔の言葉に往生への道も分からなくなられ、とうとう教化の言葉に妄念をひるがえされるご様子もないままに、文永九年二月十七日、酉の時(午後六時頃)、御歳五十三歳で崩御となられました。
一天はかき曇り、万民は悲しみに沈み、今まで華やかであった人々の衣服はたちまち黒い喪服へと変わってしまいました。

十八日、御なきがらは薬草院殿にお送りいたしました。
内裏からは、頭中将が弔問の御使者として参られました。
御室、円満院、聖護院、菩提院、青蓮院など、門跡でいらっしゃる法皇さまの皇子方は、皆さま御葬送のお供に参列なさいました。
その夜の皆さまの悲しみは、とても表現できるものではございません。

中御門経任殿は、あれほど亡き法皇さまの御慈悲を賜った人なので、当然出家するであろうと皆々噂したり思ったりしていましたが、御骨を安置申し上げる時、なよなよとしたしじら織の狩衣で瓶子に入れられた御骨を持っていられたのは、全く意外なことでした。

御所さまのお嘆きは大変なもので、夜昼御涙の乾く間もないご様子で、二条の姫君やお仕えしている女房たちも、もらい泣きの涙で袖さえ絞れそうな日々でございました。
天下は諒闇(リョウアン・天子が父母の喪に服す期間)となって、音楽の演奏や先払いの声もなくなって、桜の花も、ここの山のものは墨染色に咲くのだろうかと思われるほどです。

久我大納言殿は、他の人より黒い喪服を賜り、姫さまも父大納言と同様の喪服を着るべきではと申されましたが、「まだ幼い年齢なので、世間一般の喪服でよいだろう。特別に濃く染めなくても」と、御所さまの御意向があったようでございます。

     * * *



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