高知城の歴史
高知城の歴史は、「図説・高知県の歴史、責任編集・山本大」に拠ったが、南北朝の時代(西暦1335年頃・660年の昔)に、此処大高坂城に拠って南朝方の中心勢力として戦った、大高坂松王丸にまで遡ることが出来る。
興国1年(西暦1340年・655年の昔)南北朝の戦いで、大高坂城が落城し松王丸は戦死したと伝えられている。
さらに248年の後、天正16年(西暦1588年)長宗我部元親は岡豊より此処大高坂に移ったが周囲に水害が多く、天正19年には浦戸城へ移っている。
関が原の戦功により土佐の国主となった山内一豊は、計帳6年(西暦1601年・394年の昔)大高坂城の築城に着手し、慶長8年落成、名を河中山後、高智さらに高知と改めている。
さらに慶長16年(西暦1611年・384年の昔)城の西側にあった中高坂山を崩して三の丸に盛り土して仕上げ、その跡地には桜を植えたので、桜馬場と名付けられた。
享保12年(西暦1727年・268年の昔)越前町より出火して1300余戸を消失、高知城も類焼により建物の大半を消失した。
享保14年、高知城再建工事に着手し、24年の歳月を経て、宝暦3年(西暦1753年・242年の昔)に完成した。
大政奉還により、明治4年(西暦1871年・124年の昔)廃藩置県となり、山内家は高知城を高知県に譲渡した。
高知県は、明治6年高知城を高知公園と改め、県立都市公園として広く県民に開放した。
昭和9年(西暦1934年・61年前)国宝(現在は重要文化財)に指定され更に、昭和34年(西暦1959年)には、高知城の全域が史跡に指定されている。
(注:これは1995年に作成したものです)