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老子「第十四章」道徳経

2014-05-06 22:06:12 | 老子「道徳経と伊勢白山道「道経1~37
人間が視覚・聴覚・触覚を「超えた先」に存在するのが「無」であり、恍惚(こうこつ)としか言葉が無いとしています
       
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・老子「道徳経と伊勢白山道」 道経 
第十四章 *老子を英訳 http://mage8.com/magetan/roushi02.html
・原文 「書き下し文
視之不見、名曰夷。「これを視れども見えず、名づけて夷(い)という。
聽之不聞、名曰希。「これを聴けども聞こえず、名づけて希(き)という。
搏之不得、名曰微。「 これを搏(とら)うるも得ず、名づけて微(び)という。

此三者不可致詰、故混而爲一。「この三つの者は詰(きつ)を致すべからず、故(もと)より混(こん)じて一と為る。
其上不、其下不昧。「その上は(あきら)かならず、その下は昧(くら)からず。
繩繩不可名、復歸於無物。「縄縄(じょうじょう)として名づくべからず、無物(むぶつ)に復帰す。
・縄縄(じょうじょう)という意味は、物事が絶えずに長く続くさまをいいます
是謂無状之状、無物之象。是爲惚恍。「これを無状(むじょう)の状、無物の象(しょう)と謂(い)い、これを惚恍(こつこう)と謂う。 

迎之不見其首、隨之不見其後。「これを迎(むか)うるともその首(こうべ)を見ず、これに随(したが)うともその後(しりえ)を見ず。
執古之道、以御今之有、能知古始。「古(いにし)えの道を執(と)りて、もって今の有を御(ぎょ)すれば、能(よ)く古始(こし)を知る。
是謂道紀。「これを道紀(どうき)と謂う。 

現代語訳
目をこらして視ようとしても見えないもの、これを「夷」と呼ぶ。耳を澄まして聴こうとしても聞こえないもの、これを「希」と呼ぶ。手探りで取ろうとしても得られないもの、これを「微」と呼ぶ。

これら三つのものは元々一つのもので、我々には捉える事の出来ないものなのだ。その上に行っても明るくならず、その下に行っても暗くならない。
おぼろげでとらえどころも無いので名づける事も出来ず、結局は無に帰ってゆく。
これを「すがたの無い姿」「かたちの無い形」または「おぼろげなもの」と呼ぶことにしよう。

こちらに向かって来るのを迎えても顔は見えず、後から追いかけても後姿は見えない。
この古くからの「道」を通して眼に見える今を見れば、物事の起源を知る事ができる。
これを「道の始まり」と呼ぶ。

英訳文
Things that we cannot see, I call them "the obscure". Things we cannot hear, I call them "the faint". Things we cannot catch, I call them "the subtle". We cannot sense these and these are originally the same one. The space above it is not bright. The space below it is not dark. I cannot name it because it is too vague. It returns to nothingness in the end. I call it, for convenience' sake, "appearance of no appearance", "form of the formless" or just "the vague". You cannot see its face even if you meet it. You cannot see its back even if you follow it. If you observe the present time with "the way" from ancient time, you can understand the origin of things. This is the start of "the way".


*難しいことよりも愛情が大切です  2012-09-28
伊勢ー白山道 記事全文http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/d/20120928
老子の言葉 第十四章
(独自の超訳)
私たちが見ようとしても見えないモノ、これを「見えないモノ」と名付けましょう。
耳で聞こうとしても聞こえないモノ、これを「聞くことが出来ないモノ」と名付けましょう。
手で触(さわ)ろうとしても触(ふ)れられないモノ、これを「触ることが出来ないモノ」と言いましょう。

見えない・聞こえない・触れない、この3つをそれぞれ別々に追求しても、その正体を決して理解することが出来ません。
なぜなら、同じ1つのモノ(真理)を指すからです。
この真理の上を見ても下を見ても、まったく同じなのです。
同じ1つの真理が、コノ世のどこまでも貫徹しています。
結局は、このようなことを名付けることが出来ないので、「無」としか表現が出来ません。
コノ世の真理である「無」とは形がなくて、お縄に出来るとらえどころが一切ありません。
だから「無」を、「最高の喜び」(恍惚:こうこつ)と私は表現します。

無という真理に向かって行っても、その頭も見えず。
真理に従っても、その後ろ姿さえも分かりません。
古来からの歴史の流れを見て知り、その上で今の社会を見ますと、見えてくる真理が存在します。
それこそが本当の真理の道なのです。

原文
「視之不見、名曰夷。聽之不聞、名曰希。搏之不得、名曰微。
此三者不可致詰、故混而爲一。其上不、其下不昧。
繩繩不可名、復歸於無物。是謂無状之状、無物之象。
是爲惚恍。
迎之不見其首、隨之不見其後。執古之道、以御今之有、能知古始。是謂道紀。」

(感想)
老子が、コノ世の言語を駆使して、真理というモノを説明しようとされています。
これほどまでに真理を指摘している(言い当てている)文章は、近代にも無いと思います。
これを二千年以上も前の王様に仕える官僚組織のサラリーマンが、世間の中で隠れながら残しているのは凄いことです。

老子は、コノ世の真理は「無」だと言っています。
私たちが「無」と聞きますと、何もない、虚しい、つまらない、寂しい、・・・・などと思いがちです。
しかし老子は、文中で「無」を恍惚(こうこつ)だと断言されています。
これは凄いことを言っています。
無とは何もないどころか、恍惚、絶対的な歓喜、最高の快楽だと言っています。

無が、どうして最高の快楽、仏教でいう涅槃(ねはん)、「三」昧(さんまい)の境地、なのでしょうか?
それを老子は文章の最初に、人間が視覚・聴覚・触覚を「超えた先」に存在するのが「無」であり、恍惚としか言葉が無いとしています。
逆に言えば、人間が視覚・聴覚・触覚に“ダマされている間”は、本当の恍惚を体験することが無いとしています


しかし私たちは、いくらなんでも「無」が快楽であると理解できませんから、それは表現と解釈の問題だと思うことでしょう。でも、違うのです。本当に無とは、恍惚とする快楽なのです。
近代インドの聖者の一人であるラーマ・クリシュナは、無の境地に入りますと、あまりの快楽のためにヨダレを流していました。脳から分泌されるドーパミンの影響でしょう。
これは表面的な肉体反応の1つに過ぎませんが、コノ世を出現させている奥には、恍惚とする無の「静寂の海」が確かに存在するのです。
これは自分で体験するしか分かりません。言語表現の限界があります。

そして老子は最後の数行において、このような見えない真理を特殊な体験者(視覚・聴覚・触覚を超えた者)だけではなくて、普通の誰もが認識するためには歴史と今の現状を見なさいとしています。
そこには人間の生活の「継続」が存在するわけです


人間が継続するのは、子供を育てる愛情がコノ世にあるから継続するのです。
人類が赤子を育てる愛情を放棄すれば、100年もしない内に絶滅します。
近年では、赤子を放置する人間が一部には出始めています。これが広がれば、人類は絶滅します。

人類は、無私の与える一方の愛情を持ち続ければ、自然と恍惚とした良い世界へと社会も死後の魂も進むのです

生かして頂いて ありがとう御座位ます


無いことを楽しむこと。これ最高 2017-09-25 老子の人生論
伊勢ー白山道 記事全文http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/d/20170925
参考記事:老子の言葉 第十四章「難しいことよりも愛情が大切です」

「 老子の人生論」第十四章

見ることも出来ない。
聞くことも出来ない。
触ることも出来ない。

「何も無い」、とは素晴らしいことだと思いませんか?
有る、ということは、いずれは必ず苦しみに変わります。
なぜならば、コノ世のすべては最後は無に帰るからです。
(命、肉体、家族、家、財産、ペット、経歴、・・・・)

だから、最初から「無」ということを楽しみましょう。
「何も無い」ということを、もし楽しむことが出来る人がいれば、これが最高の人なのです。
「無」の良さに、楽しさに、気付けた人は、逆に最高の贅沢を楽しむことが出来ます。

古来からの人間の栄枯盛衰をただ繰り返す、大きな流れを冷静に見ることが出来れば、
「何も無いこと」「何も持たないこと」
これで十分だと真から分かり、何も無いことの楽しさが分かります。
真理とは、こういうモノなのです。

(感想)
「最後はこれなんだよ!」という老子の究極の示唆が、この項で出ています。
老子が特に崇高な点は、見せ掛けのスピリチュアルな言葉・内容では無くて、
・ 長い歴史の裏付けが有る内容。
これから外れないことなのです。だから本当の真理だと言えます。

人間は、無い、ということに苦しみます。
金が無い、伴侶が無い、子供がいない、仕事が無い、・・・・。
でも、これを頑張って苦しみながら得たとします。

次は、それが「有る」ことに苦しみます。
こうなるならば、無い方が良かった。
また、元に戻る訳です。

その間に、どんどん期間限定の人生は終わりに近付きます。
それまでの人生で、その人は真から楽しんだこと、感謝したことが有ったのでしょうか?
どの人生期間を見ましても、文句だけが出る人生に成っているのが多くの人間なのです。

それでは、本当に寂しい人生なのです。
老子は、そうでは無くて、
・ 無いことも、楽しみましょう。
・ 無いことを、楽しむ。

これに気付けた人は、
・ 無いことも楽しみ。
・ 有るモノには、その有り難さに「更に」感謝して楽しむ。
つまり、どんな人生を歩みましても、成功・失敗に関わらず人生を楽しむ人に成れます。
これは本当に幸福な人生なのです。

今日からは、「ソレが無いことを楽しむ視点」を、工夫しながら心掛けて見ましょう。
何かが有る時には気付けなかった、新たな有り難さに気付けるかも知れません。

・ 無いことを楽しむ。

これを見せ掛けでは無くて、底辺の心から分かり始めた時に、
見ること、聞くこと、触れることのすべてに、神様の芸術を見る感動を人は覚えると私は感じます。
コノ世のすべては、歓喜の振動をしています。
後は、自分が気付くだけなのです。

生かして頂いて 有り難う御座います


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