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MINの目

MINの目が見つけた事柄をつれづれなるままに綴ります

東海道五十三次④ 東戸塚~藤沢本町 2023 藤沢宿

2025年02月19日 | 東海道五十三次
お腹も満たされ、藤沢宿に向かって出発です♪

溶岩の上に立つような迫力のある天王山不動尊像が現れました。
その横に曹洞宗 龍長院の看板があったので関係があるのでしょうか?歩かないと気づかなかった思いました。

説明のポールが立っているだけでしたが影取立場跡という場所がありました。
立場とは宿場間が遠い時や峠などの難所に休憩施設として設けられた場所だったようです。
立場が栄えると間の宿(あいのしゅく)と呼ばれたそうです。
ここは、鎌倉道と交差する要所で藤沢宿までは約1里だそうです。
今回の目標の藤沢宿まであと1里♪

少し進むと歩道側に祠のような小屋が見えて、のぞくと舟形の石に2体の像が彫られていました。
珍しい・・本を確認してみました。
道祖神とあり男女双体道祖神との事でした。1759年造立との事、大切にされていました。
この先の東海道歩きの安全をお祈りして先に進みました。

藤沢市に入ると東海道松並木跡の碑がありました。
その横にそれらしき松がありましたが、細いので・・子孫か新しく植えられたものでしょうか??

いよいよお正月の駅伝でも有名な遊行寺の坂へと向かいます。
坂の途中には一里塚の説明板もありました。
そして、坂の終わりの場所には藤沢宿に入った事を意味する江戸見附跡の説明板がありました。

長年住んでいる地域ですが、横目に見るだけで寄った事の無い遊行寺へお参りする事にしました。
思った以上に広い境内でした。 中には宗祖の一遍上人の像もありました。
お堂も立派で「藤沢山」とありました。御朱印も頂き、先に進みます♪
東海道の流れで入ると横から入ったようで、参道をすすみました。
参道も立派でこちらからお参りして入ったらまた印象が素晴らしかったかもしれないと思いました。
この雰囲気のある石畳の参道両脇にある木は八重桜のとのことです。
桜の時期はまた素敵でしょうね💗

山門を出て少し進むとふじさわ宿交流館がありました。
静かな雰囲気でしたが、引戸を開けると沢山の資料が展示されていました。
藤沢宿の模型や旅行道具の展示があり、ゆっくり拝見しました。
境川にかかる赤い橋を渡ると再び国道に出ました。左手には藤沢宿高札場跡がありました。
右手に進みます。
国道沿いにある東電のBOXに藤沢宿の様子の写真や絵が貼ってありました。
よく落書きされているのを見かけますが、良い利用方法だなと感心しました。
この先が楽しみです。
旧桔梗屋と書かれている幟が見えて来ました。建物は見るからに古く、江戸時代を彷彿させる感じでした。
覗くと、3月という事もありひな人形が飾られていました。
蒔田本陣跡、問屋場跡の説明板を見ながら、歩き遍路をした相州21ヶ所のお寺荘厳寺があります。
その横に立派な蔵があり、鎌田商店という和紙を商っていた史跡の蔵がありました。
そして、道から少し奥まった場所に義経首洗井戸という井戸がありました。
鎌倉幕府初代将軍源頼朝の異母弟源義経の首を洗い清めたと言われる井戸で、
平泉で討たれた首は片瀬に浜に捨てられ、境川をのぼり流され、
白旗に漂着したものを里人がこの井戸で洗い清めたという逸話が残っているそうです。

さて、本日はここまでです。近くに藤沢本町という駅があり、そこから帰宅しました。
次回はこの駅からという事になります。

天王山不動尊像

男女双体道祖神

藤沢市に入ります!

松並木跡の碑がありました♪子孫かな??

正月の駅伝でも有名な遊行寺の坂

一里塚跡の案内板が道の反対側に

江戸見附跡♪ここから藤沢宿ですね

初めての遊行寺へ

立派なお寺でした

美しい装飾の斗栱それぞれ違う彫り物でした

一遍上人の像

手水舎の龍

こちらが正式な入り口

藤沢宿の交流館

藤沢宿の模型

絵地図もありました

旅の七つ道具の展示もありました

境川を渡り進みます

東電のBOXを利用した展示♪なるほどでした

旧東海道の面影を残す桔梗屋の文庫蔵

ひな人形の展示がありました

蒔田本陣跡の説明がありました

義経をお祀りしている白旗神社が見えます

次回はこの跨線橋を渡るところからとなります


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東海道五十三次④ 東戸塚~藤沢本町 2023 戸塚宿

2025年02月14日 | 東海道五十三次
トップ写真は芭蕉の碑
長文の後に写真があります

亀の歩みの東海道五十三次歩きも続けています。。。少々あやしいですが💦
前回、最後だった東戸塚へ。
最後にお参りした福寿観音で再度お参りをして旧東海道に復帰しました♪
沢山の旧東海道の道標や案内板に、導かれながら進みます。

スタートして間もなく品濃坂上の案内板が現れます。昔は坂だったのかな??
今は、少しくだって環状2号の上の歩道橋を通って降りて行きます!

品濃坂上からは富士山が見えました!!清々し気持ちに♪

横断歩道は渡って左に降りていきます。四国の歩き遍路を思い出すぐらい細かく道標がありました。
用水路といった感じですが、鯉が泳ぐの川を横目に住宅街を進みます。
車通りの多い道に出ると道を見失いましたが・・そこにも道標が!助かります♪
一号線に出ると慣れ親しんだ景色が!
いつも車から見ている景色に気になる土壁漆喰の建物がありました。
広い敷地の中にポツンと建っていました。調べてみると「鎌倉ハムの土蔵」とあります。
鎌倉ハムとはこの地域では有名ですが、私の中では最近の会社かと思っていたのですが、歴史があることを知る事となりました。
その先の不動坂へ進むとレンガ造りの大きな建物が見えて来ました。
これは鎌倉ハム倉庫で発祥の地との事でした。明治20年頃に斎藤満平等がカーチスからハムの製造法を学んだそうです。
建物は大正7に建造され、2階はハムの仕込み室とのことです。
この赤レンガはイギリス式の積み方で壁厚は1mほどあるということです。
貴重な建物ですね♪ 鎌倉ハムは知っていたものの、ここが発祥の地とは知りませんでした。
歩いているからこその出逢いですね。

再び国道一号線に出ると、戸塚宿江戸方見附跡の碑が現れました。
そして吉田一里塚跡があります。明治時代の早い時期に取り壊されてしまったようです。江戸から10番目の一里塚です。
え~~と・・まだ40Kmほどしか進んでいない訳です💦まぁのんびり確実に進みましょう( ´艸`)
この先の柏尾川かかる大橋にステンレス製の広重の浮世絵 戸塚宿があり当時の様子を感じる事が出来ます。
この橋を渡ると戸塚駅が近くです。JRの線路を歩道橋スタイルの跨線橋を渡って進みます。
この跨線橋の下に旧東海道の資料を見る事が出来ます。
昔は踏切だったようです。なかなか開かなかったでしょうし、これを渡りきるのは大変だったと思います。
ありがたいと感謝しながら跨線橋を渡りました。

戸塚宿に二つあった本陣の一つの 澤邊本陣跡があり、そこには「明治天皇戸塚行在所阯」の碑がありました。
その奥には戸塚宿の鎮守の羽黒神社がありました。この先にも八坂神社や冨塚八幡宮と神社が続きました。
冨塚八幡宮には鎌倉で揚がった初鰹が戸塚を通って江戸に運ばれいたそうなのですが、それを詠った芭蕉の碑がありました。(トップ写真)

少し進むと戸塚宿 上方見附跡の標があり、戸塚宿はここまでのようです。

さていよいよ旧東海道 大坂が現れます。名前を見て覚悟していたのですが、ゆるめの坂でした。
登り初めには庚申塔群があり、元禄八年(1695)建立の青面金剛像が並んでいました。
ゆっくり登っていくと大阪松並木の説明がありました。松並木が素晴らしく、富士山を臨むことも出来たようです。
現在の大坂になるまでは数回の改修があったそうです。そして、いまも改修が続いていました💦
環状3号と繋がる新しい道が出来ていました。一見渡れそうもありません・・。
よくよく見るとその道を渡る為の道が出来てました。
気持ち遠回りを感じつつも景色が広がる感じを楽しみました。

マンションの横を進むとその一角に「お軽勘平戸塚山中道行の場の碑」があります。
「仮名手本忠臣蔵」という話に出てくるシーンの場所で「戸塚の山中、石高道で足は痛まないか?」と軽勘がお軽をいたわるシーンがあるそうです。


ここでタイミング良くベンチがあり、私も一緒に歩いている旦那さんをいたわって休憩しました( ´艸`)

さて、そろそろ原宿の一里塚。。しかしながら、在るであろう標がありません。。。思わず探してみましたが、在りませんでした。
工事中だったので、一時的に外していたのかもしれません(後日、車から復活しているのを確認しました)
近くには富士山信仰の原宿鎮守、原宿浅間神社があり、ここから富士山や箱根を臨むことが出来たそうです。

歩道橋の下に石仏石塔群がありました。西國巡礼の供養ともありました。
そろそろ戸塚も終わり、藤沢に入る場所に「名残り松」があります。当時は松並木だったようで、それが残っているようです。
どれがそれかは分からなかったのですが、確かに何本か松を確認しました。
松並木は日差しを柔らかくするためには大切な存在だったのではと日差しを浴びながら感じました。

時間はもう少しで14時!まだお昼を食べていませんでしたが、もうすぐ藤沢に入ることから目途がたったので休憩する事に。
そうとは決めていませんが、ここまでお蕎麦を食べて来たので、お蕎麦屋さんに入りました。
合掌造りの建物が印象的な「名古屋」さんです。店内も古民家の設えで少しのんびりと美味しくいただきました。

東戸塚の福寿観音から出発

品濃坂上 富士山がうっすら見えます。

富士山が見えました・・分かりにくい💦

歩道橋を渡って左の方へ

川沿いに進みます

鯉や鴨が泳いでいました

道を見失いそうになりますが、細かく道標がありました

桜が咲いていました🌸

大きな工場がいくつもあります!

鎌倉ハムの土蔵

鎌倉ハム倉庫で発祥の地

江戸方見附跡

吉田一里塚跡

ピンク色の社は木之間稲荷社 伏見稲荷大社の分霊とのこと。

大橋のたもとにある戸塚宿の浮世絵

大橋にも浮世絵がありました

大橋からの景色

東海道自販機がありました♪

戸塚の跨線橋に向かって進みます。この時点で踏切が見えなかったので心配になりました💦

跨線橋の下には以前踏切があったことと当時の様子が分かる資料が展示されていました

澤邊本陣跡の「明治天皇戸塚行在所阯」の碑

古い道標が残っていました

芭蕉の碑があった冨塚八幡宮

大坂が見えて来ました

大坂の途中にあった庚申塔群

浅間神社の鳥居横にあった庚申塔

大運寺近くにある歩道橋下の西國巡礼供養の石仏石塔群。

今回もお昼にお蕎麦を頂きました









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東海道五十三次③ 権太坂~東戸塚 2022

2022年09月27日 | 東海道五十三次
本陣跡から約2kmの場所に権太坂が現れました。
それは私の知っている国道1号線の権太坂とは違う場所でした。
その坂は横須賀道路と保土ヶ谷バイパスを結ぶ道の上を登っていました!
まさかこの道が権太坂だとは。。
江戸時代の東海道の権太坂はさらにキツイ坂で最初の難所だったそうです。
なぜ「権太坂」という名前なのか??
二つの説があるそうです。
一つは旅人がこの道にいた老人に「この道はなんという坂か?」と聞いたところ、自分の名前を聞かれたと勘違いして「ごんたです」と答えたから。
二つ目は権左衛門という代官の指図によりひらいて出来た坂道だから。
前者の方が面白い説ですね。
なかなかキツイ坂でした。昔の坂の様子の写真も案内板にありました。

坂を登り切った場所には「境木立場跡」という場所がありました。西に富士山、東に江戸湾を見渡せる景観の素晴らしい場所だったようです。
なぜ、境木なのか、江戸の武蔵と相模の国境だったとの事です。
他にも焼餅坂、品濃坂があるこの場所には牡丹餅が名物の茶屋があり、賑わっていたそうです。

この場所にはもう一つ是非立ち寄りたい場所がありました。
小さなお寺でしたが、次々とお参りの人が訪れる場所でした。
境木延命地蔵尊です。

鎌倉腰越の海に漂着した地蔵が土地の漁師に江戸へ行きたいと枕元に立ったそうなのです。
そうしてくれたらこの海を守ろうと告げたそうです。
漁師達が江戸へ運ぶ途中この場所で動かなくなったそうです。
ある意味、江戸との境なので、江戸まで運ばれたと言えますね。

村人たちが地蔵を引取りお堂を立てたそうで、それから村は繫栄したということです。
今も大事にされているお寺でした。

またもや分かれ道を違う方向へ行きそうになりました。
ふと石標が目に飛び込んできたのです。これは歩き遍路で培われたのかな??
左が正解でした!右は環状二号に出てしまう道でした。
左の焼餅坂を下って行きます。そして品濃坂を登ります。
そこには江戸から9番目の一里塚がありました。神奈川県内ではほぼ完全な形で残る唯一の一里塚だそうです。
保土ヶ谷宿と戸塚宿の間の位置にあり、道を挟んで西側と東側に二つの塚がある形です。
神奈川にも貴重な史跡が残っていて良かった♪

本日の目標地点「福寿観音」まではおよそ300mです。
ここからデッキを利用して東戸塚の駅までアクセス出来ます。
東戸塚駅の開発に伴い建立されたこの地の守護と民の福寿を願う観音様のようです。
最後にお参りして終了しました。

次回はここからスタートとなります。次は藤沢宿まで進めると良いのですが・・頑張ります♪

旧東海道の権太坂入り口


保土ヶ谷バイパスの上に架けられた権太坂


坂の途中に権太坂の碑(トップ写真)がありました


今も残る松並木


境木延命地蔵尊


境木の場所には国境を表す碑がありました


その場所にブスリ


旧東海道へ進む為の大切な道標でした


焼餅坂を下ります


品濃坂を登ります


途中昔を彷彿とさせる石碑がありました。


当時の姿を残す9番目の一里塚 東側


当時の地図がありました


道を挟んで東西にある塚を西側の塚から撮りました


東戸塚を守る福寿観音







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東海道五十三次③ 保土ヶ谷宿 2022

2022年08月27日 | 東海道五十三次
保土ヶ谷宿に向かって西区に入ります。
ぼーっと歩いていると見逃しそうな分かれ道に道標がありました。
私が進もうと思っていた道とは違う道でした。 気が付いて良かった♪

よく車移動で通る浅間下の交差点に出ました。そこにはその名の通り浅間神社があります。
ほとんど歩いた事の無い交差点を渡り、知ってはいたけど行った事の無い浅間神社へお参りしました。
神社は少し高い場所にあります。昔はここから富士山を臨むことが出来たとのこと。
ゆえに富士山の麓にある浅間神社と同じ浅間神社なのですね。
この神社には富士山に通じていると言われる「富士の人穴」と呼ばれる横穴があり、東海道を往還する人々の観光名所だったようです。
残念ながら今は見る事が出来ないようです。
神社の目の前が海岸線だった事を考えると美しく富士山を臨むことが出来たのだろうと想像を膨らませました。

しばらく進むと「追分」の道標がありました。
八王子道と東海道の分かれ道だったようです。ここから八王子にいけるのか。知らなかった!
洪福寺松原商店街へと入って行きます。
保土ヶ谷宿の地図がありました。だいたいを把握して進みます。「跡」が多いですが見どころも沢山あります。


橘樹神社が見えて来ました。旦那さん的には思い出のある神社のようで立ち寄ってみました。
疫病祓除の神という事で早速、コロナの終息をお願いしました。
楠が印象的な雰囲気のある神社でした。御朱印を頂きました。
御朱印を頂ける社務所にはとても雰囲気のある素敵な神社の写真がありました。
とても心が落ち着く神社でした。

お昼も過ぎてそろそろ何かお昼ご飯を食べたいところ。。
ここまで東海道歩きのお昼にはお蕎麦を頂いていたので、出来ればお蕎麦屋さんがあれば入りたいところでした。
少し先にまるで用意されていたかのようにお蕎麦屋さんが現れました!
お昼にしては少し遅い時間だったのですが、入店する事が出来ました。
この先にお店を見つける事が出来なかったので良かったです。
伊豆庵」さんには五十三次の保土ヶ谷宿の絵(トップ写真)も飾ってあり、気分も上がりました。
お蕎麦屋さんのすぐ横には帷子川が流れています。この川は広重の絵にも描かれているそうです。
昔に流れていた場所、橋があった場所は現在は公園になっていて、その橋も散策路として表現されていました。
その先にも、様々な問屋跡などの「跡」が多くありました。途中、「保土ヶ谷宿お休み処」がありました。
残念ながら時間外で閉まっていましたが、そこには古い「金沢横町道標」四基が展示されていました。
月曜は休館、正午から午後三時まで開館となっているようです。

東海道線の線路を渡り、更に進むと正月の駅伝でも有名な国道1号線に出ます。
ここには本陣跡がずらりとあります。跡ではありますが。当時をほうふつとさせる外観の建物もあります。
その先に一里塚や上方見附跡が復元され、松並木も復元されているところがありました。

さて、お正月の駅伝でもよく耳にする権田坂に向かいます。

この道しるべを左方向です。なかったら違う方向に行くところでした


富士山を臨むことが出来た浅間神社の境内


仔狛犬が一緒の狛犬さん


こじゃれたタイル張りの蔵がありました


追分 右へ進むと八王子へ


橘樹神社


とても雰囲気のある神社でした


力石


石盥盤(いしたらいばん)


今回のお蕎麦屋さん伊豆庵


今回も天ぷらそばを頂きました。美味しかった♪


蕎麦屋さんの横には帷子川が流れていました。魚影が!!


日本橋より8里の道標


公園内に五十三次にも描かれている保土ヶ谷宿の帷子橋があった場所が模されていました


入り口の仏足が印象的な香象院(新四国・東国 22番札所)


当時を感じる古い建物


大切に利用されている古い建物


東海道保土ヶ谷宿お休み処


古い道標が並んでいました


国道一号線に出ると宿場町を彷彿とさせる建物が本陣あとにありました。


当時の宿場町の様子が銅板に表されていました。


旅籠屋(本金子屋)跡 きれいに復元されています


復元された一里塚跡


復元された松並木


正月駅伝の様子のマンホールがありました。

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東海道五十三次③ 神奈川宿 2022

2022年08月13日 | 東海道五十三次
前回のブログ:東海道五十三次② 川崎宿→生麦 2020

コロナ禍で引きこもり状態で随分空いてしまいました。死ぬまでに京都まで行けるでしょうか・・(苦笑)
2月に東戸塚まで歩いてきました。

前回は生麦まで歩き、その最寄り駅の新子安まで歩いたのでここからのスタートです。
しばらく第一京浜と呼ばれる国道を進みます。
ふと一本内側の道の方に目をやると何か解説のようなものが見えました。
それは宿場町の入口にしばしば作られた土居(桝形)の説明とオランダ領事館跡、長延寺跡の説明でした。
今は公園となっています。公園内にはそれを示す碑がありました。
ここが神奈川宿の入り口というわけです。

次に良泉寺が現れます。先ほどの長延寺がオランダ領事館だったように、お寺が領事館として充てられたようです。
しかし、それを良しとしなかった良泉寺は本堂の屋根を壊し、修理中なので対応できないとした話が残っているそうです。
目を惹く雰囲気のあるお寺でした。
また一本内側の道に大きなタイル張りで出来た解説が見えました。
この一帯の街道沿いの古地図絵でした。大概書というようです。
そこには現在の駅や公共施設の位置も記されていて、今いるところが海であることを知ることが出来ました。
説明には上無川が神奈川という地名の由来との話が出ていました。

先ほどの大概絵図にも記されていた滝の川の橋を渡ります。
この橋は同じ場所にあったようです。
この橋挟んで江戸側には神奈川本陣、反対側に青木本陣が置かれていたそうです。
この橋のすぐ脇には現在の地区センター的役割の「高札場」があったそうです。
渡ったすぐ近くにある宗興寺には開港当時アメリカ人宣教師でヘボン博士ここに施療所開いたそうです。

ヘボン博士???なにか聞いた覚えが。。

そうローマ字!!和英辞書や聖書の翻訳など日本の教育に尽力した方だそうです。
ヘボンとは愛称で本当はヘップバーンさんとのこと。
そんな人が横浜と所縁があったとは。
境内には立派な碑もありました。
このお寺の横には「神奈川の大井戸」というものがありました。
大井戸というには普通サイズに見えましたが浮世絵図にも記されている井戸は確かに大きい物の様でした。
先ほどのヘボン博士もですが、徳川将軍のお茶の水に充てられたそうです。
井戸の水量の増減によって翌日の天気を知ることが出来たそうで「お天気井戸」とも呼ばれたそうです。

幸ヶ谷町学校のお魚フェスティバルの楽しい壁画を見ながら次の角を右に入ります。
その先に「洲崎大神」神社が現れました。
丁度、神奈川宿ウォークが開催されていたこともあり、賑わっていました。
源頼朝が石橋山合戦で敗北した源頼朝が安房に渡った際、上陸した洲崎の安房神社に参籠し、再起を祈願し、無事に天下平定したことから幕府直轄の神社として創建されたとのこと。
こんな場所に由緒ある神社があるとは知りませんでした。
境内も歴史を感じる厳かな雰囲気がありました。

青木橋を渡ります。
ここは鉄道を通すために切土された場所で、JRの京浜東北線、東海道線、横須賀線、京浜急行線などを見ることが出来ます。
線路が8つあるのでなかなかの迫力のある場所です。

橋を渡ると大きな緑道の先にトンネルが見える場所がありました。
こんなところに人が通る為だけにトンネルを作ったのかと思ったら、昔の東横線のトンネル跡でした。
今はみなとみらい線と繋がり、地下へ移動しています。
白楽まで続く長い緑道となっているようです。

神奈川宿も終わりに近づく場所に大天狗伝説もある大綱金毘羅神社があります。
1188年に源頼朝により創建されたとの事。
この神社前には日本橋より七つ目の一里塚が置かれていたそうです。
そのすぐ先には龍馬の奥さんの「おりょう」が働いていた事でも有名な田中家があります。
広重の東海道五十三次に描かれ、高杉晋作やハリスも訪れた名店との事!

丁度お昼です。
少し門から覗いてみただけで中からお店の方が出来られて
「いらっしゃいませ」と声をかけて下さいました。
聞いてみると、予約が必要でした。何時に着くかも分からず予約をしていなかったので
残念ながら入ることは出来ませんでした。
でもとても丁寧な対応で好感が持てました♪
次の機会にきちんと予約をとってから訪れたいと思います。

神奈川宿の終わりは台町の関門跡でした。
開港後外国人が何人も殺傷される事があった為に、いくつかの関門や番所が設けられたそうです。
この神奈川宿の東西にも設けられ、その東側がここだそうです。
ここ台町は神奈川湊を見下ろす景勝地だったそうで、この関門の碑にも「袖ヶ浦見晴所」とありました。
どんな景色だったのでしょうか。。

建設省と国土交通省両方の記載のある短すぎるガードレール


有名な「小鳥の病院」この日も駐車場はいっぱいでした(現在は近くに引越しされた様ですのでご確認願います!


神奈川宿にはこのような説明が各所にありました。


領事館に充てられないように屋根を壊したとの逸話の残る良泉寺


静かな雰囲気のあるお寺でした


現在の滝の川


地図に出ていました


歴史を感じる排水溝が見られました


開港当時アメリカ人宣教師でヘボン博士がここ宗興寺に施療所開いた


碑もありました


宗興寺の敷地横に「神奈川の大井戸」があります


幸ヶ谷町学校のお魚フェスティバルの楽しい壁画


源頼朝が創建した「洲崎大神」


一風変わった狛犬さん


青木橋からの風景


昔の東急東横線のトンネル跡は緑道に


龍馬の奥さんの「おりょう」が働いていた事でも有名な田中家


神奈川宿の終わり、台町の関門跡の碑


東海道最初から読む:東海道五十三次① 日本橋→新橋 2019
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