
関東に住んでいるので、そう度々会うことは出来ないが、
節目、節目には帰ってくれる。
この一年の成長に感謝せずにはおれない。
両親も一生懸命育てている様子で、うれしい。

お母(嫁)さんが「一歩足を前に出しました。」と電話で話していた。
「這えば立て。立てば歩めの親心。」うまく言い当てている。
そして今朝、お餅が宅急便で送られてきた。
「○○の誕生日に背負わせた一升もちです。少しですがおすそ分けします。」
とお嫁さんからの付箋が付いていた。
“一升もち”とは「その子が一生食べ物に困らないように。」との願いでする
満一歳の祝い事だそうな。
私たちの子供には、やらずに過ごしてきた。
“するめ”をお膳につけて祝ってはきたけれど・・・・

ありがたい


今週の泳ぎも先週の復習でクロールのキック
をやった。
腰から足にかけて沈まないように、お尻を持ち上げる気持ちでキックを打つ。
腕は、伸びて遠くから、だんだん肘を曲げて大きく水を掴んで太ももまで押し下げる。
バックのキックも同じで、足が沈まないようにおへそを持ち上げる気持ちで
そのあとは平泳ぎを重点的にやった。
手はコンパクトにかくこと。かき終えたら胸の前で両手を寄せて
小さくなって
手の平を合わせて前へ
足は先週のキックを思い出して、足の裏で蹴る
「あなたのは蹴ってから閉じていますよ。
蹴ってから閉じるところまでひと続きに。」
と注意を受けた。
気をつけて『いーち、に』『いーち、に』と心で唱えながら泳いだ。
「よくなりましたよ
」
と先生が誉めてくださる。
幾歳(いくつ)になっても誉められるということはうれしくて、
「ありがとうございます
頑張ります
」と答えている私である。
あんまり頑張りすぎたせいか一夜明けた今日は腹筋や、お尻の筋肉が痛い。

腰から足にかけて沈まないように、お尻を持ち上げる気持ちでキックを打つ。
腕は、伸びて遠くから、だんだん肘を曲げて大きく水を掴んで太ももまで押し下げる。

バックのキックも同じで、足が沈まないようにおへそを持ち上げる気持ちで

そのあとは平泳ぎを重点的にやった。
手はコンパクトにかくこと。かき終えたら胸の前で両手を寄せて

手の平を合わせて前へ

足は先週のキックを思い出して、足の裏で蹴る

「あなたのは蹴ってから閉じていますよ。
蹴ってから閉じるところまでひと続きに。」
と注意を受けた。
気をつけて『いーち、に』『いーち、に』と心で唱えながら泳いだ。
「よくなりましたよ

と先生が誉めてくださる。
幾歳(いくつ)になっても誉められるということはうれしくて、
「ありがとうございます


あんまり頑張りすぎたせいか一夜明けた今日は腹筋や、お尻の筋肉が痛い。

我が家の頼み寺の境内に、この程“納骨堂”が完成した。
わたし達の宗旨では、亡くなるとお骨は京都の“大谷本廟”へ納骨に行く。
先代、祖父祖母たちのお骨も大谷さん(大谷本廟)に納めるてある。
今、こんなに近い所に納骨堂が出来たのだから、早速使用申し込みをした。
京都まで、お参りにいくとなるとツイ足が遠のぐが
ここのお寺になら、お彼岸、お盆、お正月、と機会あるごとにお参りできる。
ご住職が大谷本廟から出骨手続きを経て以前のお骨を持ち帰りくださる。
近々、こちらに安置するお勤めをすることになるのだろう。
ずーっと、のちのちの代までこの地へお参りしてくれることになる。
ホッとするというか、安心というか、地に足が着いたという気がする。

わたし達の宗旨では、亡くなるとお骨は京都の“大谷本廟”へ納骨に行く。
先代、祖父祖母たちのお骨も大谷さん(大谷本廟)に納めるてある。
今、こんなに近い所に納骨堂が出来たのだから、早速使用申し込みをした。
京都まで、お参りにいくとなるとツイ足が遠のぐが
ここのお寺になら、お彼岸、お盆、お正月、と機会あるごとにお参りできる。
ご住職が大谷本廟から出骨手続きを経て以前のお骨を持ち帰りくださる。
近々、こちらに安置するお勤めをすることになるのだろう。
ずーっと、のちのちの代までこの地へお参りしてくれることになる。
ホッとするというか、安心というか、地に足が着いたという気がする。


S大学の水泳部の学生さんで、真面目そうな男性

キックを徹底して指導される。
クロールのキックは膝を伸ばして足首の力を抜いて

バックのキックは水面から膝を出さない! 水を蹴り上げるような気持ちで

平泳ぎのキックは、足の裏で水を後へ!
私は平泳ぎが苦手だ。
がんばっている割には前に進まない

「かかとで蹴るようにやると水が掴みやすい」と、コツを教えてくださった。

ところが、手をつけて泳ぐと、足がお留守になって伸びたキックになってしまう。
一ぺんに出来るようにはならない。仕方ない。
足に集中しながら、身体に覚えさせていこう。

昨日のこと。
久しぶりの雨降りになってしまった。
老母がデイサービスを受けることになった。
毎週金曜日に車の送迎で郊外のA施設へ行く。
施設から介護福祉士さんが事前(16日)に、面接と日常の様子を見にに来てくださった。
何しろ腰がすっかり曲がって、動きがのろくなっているので
よろしくお願いしておいた。
約束の時間、朝9時20分にきっちり車で迎えに来てくださった。
先に、ご近所のTさんが乗っておられて
喜んで出かけていった。




午後4時まで預かって下さるので、4時半ごろ車で送ってもらって帰ってきた。
そしたら、朝の検温で微熱が認められたとのこと。
「お昼にも37.5度の熱があったのでベッドで休んでもらいました。」
と言ってくださった。
「きれいなお部屋で、きれいなお布団で寝させてもらっていた。」
と母が喜んでいる。
連絡ノートもあり、三回の検温で37.5度~37.3度が記されているので
夕方、かかりつけのお医者さんに連れて行った。
喉が真っ赤で、風邪だそうな・・・
あまり自覚症状も無いようで、家にいたら、もっとひどくなるまで気がつかなかったかもしれない。
よかった

母は「今までこんなに大事にしてもらったことがない。いたれり
つくせり
だった。」と喜んでいた。
ありがとうございました。

老母がデイサービスを受けることになった。
毎週金曜日に車の送迎で郊外のA施設へ行く。
施設から介護福祉士さんが事前(16日)に、面接と日常の様子を見にに来てくださった。
何しろ腰がすっかり曲がって、動きがのろくなっているので
よろしくお願いしておいた。
約束の時間、朝9時20分にきっちり車で迎えに来てくださった。

先に、ご近所のTさんが乗っておられて





午後4時まで預かって下さるので、4時半ごろ車で送ってもらって帰ってきた。
そしたら、朝の検温で微熱が認められたとのこと。
「お昼にも37.5度の熱があったのでベッドで休んでもらいました。」
と言ってくださった。
「きれいなお部屋で、きれいなお布団で寝させてもらっていた。」
と母が喜んでいる。
連絡ノートもあり、三回の検温で37.5度~37.3度が記されているので
夕方、かかりつけのお医者さんに連れて行った。
喉が真っ赤で、風邪だそうな・・・

あまり自覚症状も無いようで、家にいたら、もっとひどくなるまで気がつかなかったかもしれない。
よかった


母は「今までこんなに大事にしてもらったことがない。いたれり


ありがとうございました。

今日は滋賀県遺族会女性部研修会が
膳所のアヤハレークサイドホテルで開催された。
久しぶりにJRに乗った。
私たちの仲間は10人で、膳所駅からは2台のタクシーに分乗して会場まで行った。
県下各地から集まってくるので、大きなホールは一杯になった。
体験発表の中で、フィリピンの戦跡巡拝に参加された方の発表には心打たれた。
彼女は、ご自身は遺児ではなく、10年程前に亡くなられたご主人のお父様が
フィリピンで戦死されたという。
残された戦争未亡人の義母さんのお世話も終えられて、
そのお義母さんとご主人の遺影と共にフィリピンの戦跡を訪ねられた。
現地で参拝者が戦死したお父さんに呼びかけをするのだが、
「お義父さん、始めまして。私が○○さんの嫁の△△でございます。」
といったら涙が滝のように次から次へとあふれて、あふれて・・

ご主人とお義母さんの果たせなかった、この地へ来れたという喜びと、
当時の無念さを想像して、なんとも複雑な涙が流れたのだろう。
又「お父さんには4ヶ月しか一緒にいられなかった。」という呼びかけには
共に涙した、ともおっしゃっていた。
href="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/c7/d70d11c114497b45ffd58a72b6dd1a37.jpg">
私の父もルソン島で戦死したが、「父親に抱かれた記憶のない私が、父の遺骨を抱いている。」と当時私たちは皆同じような体験をしてきた。
二度と戦争は起こしてはならない。
こんな惨めな経験は私たちでおしまい。
今の豊かな暮らしがあるのは、尊い犠牲の上にたっている。
大勢のご英霊のご冥福をお祈りして、感謝せずにはおれない。
膳所のアヤハレークサイドホテルで開催された。
久しぶりにJRに乗った。
私たちの仲間は10人で、膳所駅からは2台のタクシーに分乗して会場まで行った。
県下各地から集まってくるので、大きなホールは一杯になった。
体験発表の中で、フィリピンの戦跡巡拝に参加された方の発表には心打たれた。
彼女は、ご自身は遺児ではなく、10年程前に亡くなられたご主人のお父様が
フィリピンで戦死されたという。
残された戦争未亡人の義母さんのお世話も終えられて、
そのお義母さんとご主人の遺影と共にフィリピンの戦跡を訪ねられた。
現地で参拝者が戦死したお父さんに呼びかけをするのだが、
「お義父さん、始めまして。私が○○さんの嫁の△△でございます。」
といったら涙が滝のように次から次へとあふれて、あふれて・・


ご主人とお義母さんの果たせなかった、この地へ来れたという喜びと、
当時の無念さを想像して、なんとも複雑な涙が流れたのだろう。
又「お父さんには4ヶ月しか一緒にいられなかった。」という呼びかけには
共に涙した、ともおっしゃっていた。
href="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/c7/d70d11c114497b45ffd58a72b6dd1a37.jpg">

私の父もルソン島で戦死したが、「父親に抱かれた記憶のない私が、父の遺骨を抱いている。」と当時私たちは皆同じような体験をしてきた。
二度と戦争は起こしてはならない。
こんな惨めな経験は私たちでおしまい。

今の豊かな暮らしがあるのは、尊い犠牲の上にたっている。
大勢のご英霊のご冥福をお祈りして、感謝せずにはおれない。