安城市にもあった「二子」古墳
二子古墳と言うのは、尾張にもありました。春日井市の「二子山古墳」です。他にもありそうです。というのは、「二子」とは、前方後円墳などのようにお山が二つある古墳のことを言うと思うからです。円墳や方墳などお山が一つしかなければ、二子と言う名前は残らなかったのではないかと思います。

二子古墳 東側から見た写真
二子古墳とは
二子古墳は、前方後方墳です。前方後円墳はよく聞きますが、前方後方墳は、めずらしいです。全長約68メートル、高さ(後方部)約7メートル、幅約36メートルで、矢作川流域では2番目に大きいそうです。3世紀後半から4世紀初頭のものだそうです。

二子古墳 地形測量図(安城市ホームページより)
古墳はほぼ南北に伸びていて、南側が前方部で、北側が後方部だそうです。前方部はなだらかな丘になっていました。後方部は、高くなっていて、頂上にはお寺の跡がありました。

前方部から、後方部を見る

後方部の頂上には「桜井天神社古址」の石碑がありました
南の3面に周溝の跡がありました。

南西の周溝跡。少し浅くなっていて、雑草が生い茂っていました。周溝の更に西側は道路です。
「境内」とかかれた石?
ぐるっとまわっていると、「境内」と書かれた石がありました。もしかしてこの古墳全体が「桜井天神社」の境内で、そのことを示す石?でも、どうしてぽつんと残っているのだろうと思いました。

「境内」とかかれた石
二タ子遺跡

上記の安城市の地形測量図によりますと、二子古墳の東側は、「ニ夕子(ふたご)遺跡」となっています。写真の左側に看板が見えますが、それが「二夕子遺跡」の案内板です。案内板によれば、ここに弥生時代から古墳時代にかけて大集落があったということです。新幹線(写真奥の高架)建設にさいして、発掘が行われ、住居址、土器、木製品や銅鏃などが見つかったそうです。しかし、現在は麦畑が広がっていました。
二子古墳と言うのは、尾張にもありました。春日井市の「二子山古墳」です。他にもありそうです。というのは、「二子」とは、前方後円墳などのようにお山が二つある古墳のことを言うと思うからです。円墳や方墳などお山が一つしかなければ、二子と言う名前は残らなかったのではないかと思います。

二子古墳 東側から見た写真
二子古墳とは
二子古墳は、前方後方墳です。前方後円墳はよく聞きますが、前方後方墳は、めずらしいです。全長約68メートル、高さ(後方部)約7メートル、幅約36メートルで、矢作川流域では2番目に大きいそうです。3世紀後半から4世紀初頭のものだそうです。

二子古墳 地形測量図(安城市ホームページより)
古墳はほぼ南北に伸びていて、南側が前方部で、北側が後方部だそうです。前方部はなだらかな丘になっていました。後方部は、高くなっていて、頂上にはお寺の跡がありました。

前方部から、後方部を見る

後方部の頂上には「桜井天神社古址」の石碑がありました
南の3面に周溝の跡がありました。

南西の周溝跡。少し浅くなっていて、雑草が生い茂っていました。周溝の更に西側は道路です。
「境内」とかかれた石?
ぐるっとまわっていると、「境内」と書かれた石がありました。もしかしてこの古墳全体が「桜井天神社」の境内で、そのことを示す石?でも、どうしてぽつんと残っているのだろうと思いました。

「境内」とかかれた石
二タ子遺跡

上記の安城市の地形測量図によりますと、二子古墳の東側は、「ニ夕子(ふたご)遺跡」となっています。写真の左側に看板が見えますが、それが「二夕子遺跡」の案内板です。案内板によれば、ここに弥生時代から古墳時代にかけて大集落があったということです。新幹線(写真奥の高架)建設にさいして、発掘が行われ、住居址、土器、木製品や銅鏃などが見つかったそうです。しかし、現在は麦畑が広がっていました。