愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

夏目次郎左衛門吉信 幸田町

2013年10月12日 06時03分07秒 | 幸田町
 「松平記」は、一揆勢と家康勢の武将の紹介が一段落して、戦いの様子の話へと移っていきます。
 夏目吉信の話は以前に「野場城」で出てきましたが、「松平記」に即してもう一度載せます。

夏目次郎左衛門六栗で家康勢と戦う
一 額田郡野羽郷の古城(六栗 むつぐり)に夏目次郎左衛門が屋敷を城に構えて、大津半左(右)衛門と乙部八兵衛が籠もっていた。そこへ深溝の松平主殿(伊忠)が押し寄せ、毎日のように戦をしていた。 

 夏目吉信はもともとは家康の家臣だったようです。それが三河一向一揆のときは一揆勢に与しました。籠もっていたお城は、六栗城で自分の屋敷だったようです。そこには、大津半左衛門、乙部八兵衛らもともに籠もっていました。主な敵は、深溝の松平伊忠だったようです。「家忠日記」で有名な松平家忠は、伊忠の子どもに当たります。

乙部八兵衛、伊忠に忠義を返す
そのときに乙部八兵衛が松平主殿助方に忠義を返し、兵を引き入れたので、大津半左衛門はたまらず、針崎(勝鬘寺)へ退却した。

 ともに戦っていた乙部八兵衛が松平伊忠に忠義を返し、兵を引き入れてしまいました。これは、乙部八兵衛の作戦で、伊忠と戦って命を落とすより、降伏をして命乞いをしたほうが助かると見たらしいのです。大津半左衛門(半右衛門)は針崎の勝鬘寺に逃げています。

乙部八兵衛命乞いをする
夏目次郎左衛門は引くこともできず、土蔵の中に入って隠れていたところ、主殿助衆が守り固めて出ることができなくなった。今にも責め殺そうとしたところ、乙部八兵衛がいろいろと詫び言を言い出し、このたびの忠節に申し替えて命を助けて欲しいと嘆くので、このことを家康に申し上げたところ、家康は大いに感じるところがあり、命を助けることにした。

 松平伊忠が今にも夏目次郎左衛門を攻め落とそうというとき、乙部八兵衛が必死に命乞いをしています。家康は、それを聞きいれ命を助けることにしたようです。

後に三郎殿(松平信康)の家来となった。乙部八兵衛は主殿助(松平伊忠)の同心(家来)になった。


夏目吉信の墓

右から吉信、吉久(吉信の父)、吉為(吉信の子の吉忠のこと)


安祥(あんしょう)城 安城市

2013年10月06日 08時20分39秒 | 安城市
 安城市歴史博物館のすぐ隣は、安祥城址でした。

安祥城の石碑

安祥城
 安祥城は、松平氏宗家が岡崎に本拠地を移すまで4代にわたって居住した城です。

歴史博物館・安祥城周辺の観光地図


安祥城の古図


案内掲示板(かなり痛んでいました)

 案内板によれば、
室町時代中期の1440年(永亨12年)和田親平の築城と推定され、はじめ森城と呼ばれていました。三方を湿地にかこまれた台地突端に位置し、北部接続部に濠を掘った中世の本格的城郭(平山城)でした。
 1471年(文明3ねん)ごろ、松平信光が攻め取り、以後50余年間、安城松平4代(親忠・長親・信忠・清康)の居城となりました。また、松平氏の本拠が岡崎城へ移ると、この城をめぐって松平・今川氏と織田氏との間に、1540年(天文9年)から10年の間に5度に及ぶ攻防戦が繰り広げられました。
 桶狭間の戦い以後廃城となったと、考えられますが、1584年(天正12年)小牧長久手の戦いにあたり、徳川勢によって改修工事を受けたとする説が有力です。 安城市教育委員会


ということです。

 本丸には、大乗寺というお寺が建っています。

大乗寺本堂


大乗寺山門

 二の丸は、神社になっています。八幡宮です。


 そして、三の丸は歴史博物館になっています。

切岸
 古図にかかれた「此矩リ二間半切キシ」がありました。

切り岸の案内板


切岸の跡

安城市歴史博物館 安城市

2013年10月05日 22時12分30秒 | 安城市
 安城市歴史博物館に行きました。

安城市歴史博物館正面

安祥文化のさとまつり
 ちょうど、お祭りをやっていて、たくさんの人でにぎわっていました。

「安祥文化のさとまつり」の案内板が博物館に掲示してありました。


鎧兜を着た人もいました。


太鼓のイベントもやっていました。

 館内への入場料は、いつもは200円なのですが、今日(10月5日)はお祭りということで160円と安くなっていました。

本證寺の聖徳太子絵伝を動画で説明
 常設展は、安城市の歴史を通史的に古代から順を追って説明していました。記憶にあるものを少し紹介します。(館内は撮影禁止でしたので)
(古代)これは名古屋市大曲輪遺跡で発見されたものですが、人に抱かれた犬の骨があったそうです。それで、古代より犬は、人間が狩りをするときの大事なパートナーであったと説明していました。
(中世?)本證寺の聖徳太子絵伝 動画で説明していました。説明された内容は、聖徳太子の伝説でしたが、気になったこと
①幼少の頃の太子の顔の目鼻が消されている絵が多いこと
②寺を作った大工が鉄製の道具を持っていたこと
③やはり太子の服装が奈良時代以降のものに思えたこと。

自由研究に歴史調べ
 博物館のお隣に埋蔵文化財センターがありました。センターのギャラリーみたいなところで子どもの作品の展示がありました。それは夏休みの自由研究で歴史を扱ったものです。とてもたくさんあったので、安城市の子どもには歴史好きが多いのかなと思いました。なかなかたいしたものでした。
 三河一向一揆をとりあげた中3の子の発表が金賞でした。確かによく調べてありました。特にお寺に聞き取り調査に行き、坊さんの話を聞いたことは素晴らしいと思いました。資料として残っているのは、ほとんどが家康(武士)寄りのものですから、それだけだと武士寄りの見方になってしまうからです。もちろんその点は、作品の中で触れていましたが。

長沢城 豊川市

2013年10月05日 06時49分50秒 | 豊川市

長沢城址とされる長沢小学校

 9月28日に長沢城を訪れました。午後2時ごろでしたが、ちょうど運動会をやっていて終了した直後のようでした。多くの人たちが門から出てきていましたので、時間を置いてまた来ることにしました。午後3時半頃に来たときは、人の姿はなくなっていました。

一里塚発見
 長沢小学校に東の方、音羽蒲郡インターのあたりから歩いていくと南の方に音羽川という川が流れていました。その川にかかる橋の袂に一里塚を発見しました。一里塚のあった道は、今は県道374号線ですが、昔の街道であったと思われます。

一里塚跡

意外と大きい長沢城
 長沢小学校のまわりを歩いていると、グランドの南側に案内看板がありました。そこに長沢城の古図がありました。けっこう大きな城であったことが分かりました。また、城の中心は国道一号線の北側にある団地であることも分かりました。

長沢小学校にあった案内板


案内板の古地図

 いざ、戦争があったときには、南側の山「御城山」に登り戦ったようです。

南側の御城山

分断された長沢城址
 また長沢城は、国道一号線によって城跡が分断されているようです。国道一号線から長沢城址を見ると、南北に分かれていることが分かります。

南側の様子(中央は国道一号線)


北側の様子(右側は国道一号線)

 城跡が新しい道で寸断されていたのは、名古屋市緑区の鳴海城がそうでした。

 北側の団地の方に行ってみました。小高い丘になっていました。民家の中に長沢城址の石碑がありました。


東の守り長沢城
 長沢城は、「東三河には長沢とこ井より東ハ駿河方也」と「松平記」にあるように、松平氏にとって東の守りとなっていました。ここに、松平信光の11男親則を始祖とする長沢松平家を置きました。

<系図>
松平信光-(始祖)親則-親益-親清-勝宗-一忠-親広-政忠-康忠-康直-・・・・

 三河一向一揆のときは、8代目康忠のあたりです。