「松平記」は、一揆勢と家康勢の武将の紹介が一段落して、戦いの様子の話へと移っていきます。
夏目吉信の話は以前に「野場城」で出てきましたが、「松平記」に即してもう一度載せます。
夏目次郎左衛門六栗で家康勢と戦う
一 額田郡野羽郷の古城(六栗 むつぐり)に夏目次郎左衛門が屋敷を城に構えて、大津半左(右)衛門と乙部八兵衛が籠もっていた。そこへ深溝の松平主殿(伊忠)が押し寄せ、毎日のように戦をしていた。
夏目吉信はもともとは家康の家臣だったようです。それが三河一向一揆のときは一揆勢に与しました。籠もっていたお城は、六栗城で自分の屋敷だったようです。そこには、大津半左衛門、乙部八兵衛らもともに籠もっていました。主な敵は、深溝の松平伊忠だったようです。「家忠日記」で有名な松平家忠は、伊忠の子どもに当たります。
乙部八兵衛、伊忠に忠義を返す
そのときに乙部八兵衛が松平主殿助方に忠義を返し、兵を引き入れたので、大津半左衛門はたまらず、針崎(勝鬘寺)へ退却した。
ともに戦っていた乙部八兵衛が松平伊忠に忠義を返し、兵を引き入れてしまいました。これは、乙部八兵衛の作戦で、伊忠と戦って命を落とすより、降伏をして命乞いをしたほうが助かると見たらしいのです。大津半左衛門(半右衛門)は針崎の勝鬘寺に逃げています。
乙部八兵衛命乞いをする
夏目次郎左衛門は引くこともできず、土蔵の中に入って隠れていたところ、主殿助衆が守り固めて出ることができなくなった。今にも責め殺そうとしたところ、乙部八兵衛がいろいろと詫び言を言い出し、このたびの忠節に申し替えて命を助けて欲しいと嘆くので、このことを家康に申し上げたところ、家康は大いに感じるところがあり、命を助けることにした。
松平伊忠が今にも夏目次郎左衛門を攻め落とそうというとき、乙部八兵衛が必死に命乞いをしています。家康は、それを聞きいれ命を助けることにしたようです。
後に三郎殿(松平信康)の家来となった。乙部八兵衛は主殿助(松平伊忠)の同心(家来)になった。
夏目吉信の墓
右から吉信、吉久(吉信の父)、吉為(吉信の子の吉忠のこと)
夏目吉信の話は以前に「野場城」で出てきましたが、「松平記」に即してもう一度載せます。
夏目次郎左衛門六栗で家康勢と戦う
一 額田郡野羽郷の古城(六栗 むつぐり)に夏目次郎左衛門が屋敷を城に構えて、大津半左(右)衛門と乙部八兵衛が籠もっていた。そこへ深溝の松平主殿(伊忠)が押し寄せ、毎日のように戦をしていた。
夏目吉信はもともとは家康の家臣だったようです。それが三河一向一揆のときは一揆勢に与しました。籠もっていたお城は、六栗城で自分の屋敷だったようです。そこには、大津半左衛門、乙部八兵衛らもともに籠もっていました。主な敵は、深溝の松平伊忠だったようです。「家忠日記」で有名な松平家忠は、伊忠の子どもに当たります。
乙部八兵衛、伊忠に忠義を返す
そのときに乙部八兵衛が松平主殿助方に忠義を返し、兵を引き入れたので、大津半左衛門はたまらず、針崎(勝鬘寺)へ退却した。
ともに戦っていた乙部八兵衛が松平伊忠に忠義を返し、兵を引き入れてしまいました。これは、乙部八兵衛の作戦で、伊忠と戦って命を落とすより、降伏をして命乞いをしたほうが助かると見たらしいのです。大津半左衛門(半右衛門)は針崎の勝鬘寺に逃げています。
乙部八兵衛命乞いをする
夏目次郎左衛門は引くこともできず、土蔵の中に入って隠れていたところ、主殿助衆が守り固めて出ることができなくなった。今にも責め殺そうとしたところ、乙部八兵衛がいろいろと詫び言を言い出し、このたびの忠節に申し替えて命を助けて欲しいと嘆くので、このことを家康に申し上げたところ、家康は大いに感じるところがあり、命を助けることにした。
松平伊忠が今にも夏目次郎左衛門を攻め落とそうというとき、乙部八兵衛が必死に命乞いをしています。家康は、それを聞きいれ命を助けることにしたようです。
後に三郎殿(松平信康)の家来となった。乙部八兵衛は主殿助(松平伊忠)の同心(家来)になった。
夏目吉信の墓
右から吉信、吉久(吉信の父)、吉為(吉信の子の吉忠のこと)