安城市歴史博物館のすぐ隣は、安祥城址でした。
安祥城の石碑
安祥城
安祥城は、松平氏宗家が岡崎に本拠地を移すまで4代にわたって居住した城です。
歴史博物館・安祥城周辺の観光地図
安祥城の古図
案内掲示板(かなり痛んでいました)
案内板によれば、
室町時代中期の1440年(永亨12年)和田親平の築城と推定され、はじめ森城と呼ばれていました。三方を湿地にかこまれた台地突端に位置し、北部接続部に濠を掘った中世の本格的城郭(平山城)でした。
1471年(文明3ねん)ごろ、松平信光が攻め取り、以後50余年間、安城松平4代(親忠・長親・信忠・清康)の居城となりました。また、松平氏の本拠が岡崎城へ移ると、この城をめぐって松平・今川氏と織田氏との間に、1540年(天文9年)から10年の間に5度に及ぶ攻防戦が繰り広げられました。
桶狭間の戦い以後廃城となったと、考えられますが、1584年(天正12年)小牧長久手の戦いにあたり、徳川勢によって改修工事を受けたとする説が有力です。 安城市教育委員会
ということです。
本丸には、大乗寺というお寺が建っています。
大乗寺本堂
大乗寺山門
二の丸は、神社になっています。八幡宮です。
そして、三の丸は歴史博物館になっています。
切岸
古図にかかれた「此矩リ二間半切キシ」がありました。
切り岸の案内板
切岸の跡
安祥城の石碑
安祥城
安祥城は、松平氏宗家が岡崎に本拠地を移すまで4代にわたって居住した城です。
歴史博物館・安祥城周辺の観光地図
安祥城の古図
案内掲示板(かなり痛んでいました)
案内板によれば、
室町時代中期の1440年(永亨12年)和田親平の築城と推定され、はじめ森城と呼ばれていました。三方を湿地にかこまれた台地突端に位置し、北部接続部に濠を掘った中世の本格的城郭(平山城)でした。
1471年(文明3ねん)ごろ、松平信光が攻め取り、以後50余年間、安城松平4代(親忠・長親・信忠・清康)の居城となりました。また、松平氏の本拠が岡崎城へ移ると、この城をめぐって松平・今川氏と織田氏との間に、1540年(天文9年)から10年の間に5度に及ぶ攻防戦が繰り広げられました。
桶狭間の戦い以後廃城となったと、考えられますが、1584年(天正12年)小牧長久手の戦いにあたり、徳川勢によって改修工事を受けたとする説が有力です。 安城市教育委員会
ということです。
本丸には、大乗寺というお寺が建っています。
大乗寺本堂
大乗寺山門
二の丸は、神社になっています。八幡宮です。
そして、三の丸は歴史博物館になっています。
切岸
古図にかかれた「此矩リ二間半切キシ」がありました。
切り岸の案内板
切岸の跡
また、この日に特別記念講演として『「佐々成政」の研究最前線』と題する講演がありましたので、それも拝聴してきました。
今回の講演会では若い研究者が、従前の佐々成政に対する人物像を見直し、新しい評価を加えようとする野心的な研究成果の発表という性格がありました。
それはともかく、成政は信長の家臣でしたが、秀吉にはたびたび反旗を翻して、敵対しますが、実力と器量の大きさも手伝って何度か赦され、富山城主にもなります。
天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、信雄、家康側について秀吉方の前田利家と戦いました。
このときも頭を丸めて秀吉に謝ったので赦された、とのことです。
この戦いのとき、成政は家康との密談をするため、厳冬の越中の山嶺を越えて、浜松の家康に会いに行った、という有名な話があって、これが世に言う「成政のサラサラ越え」です。
この時の成政と家康の会見の様子を綴ったのがあの『家忠日記』だったそうです。
書かれた内容が深溝だけの話かと思ったら、こんなに日本の歴史の深いところに入り込んだ記録だったのですね。
土井さんが、たいそうこの記録集を持ち上げていた理由がよく分かりました。感謝。
コメントありがとうございます。
佐々成政という武将は信長の家臣であることのほかは余り知りませんでした。
「成政のサラサラ越え」というのは、すごいですね。
真冬に日本アルプスを越えて浜松まで来たらしいですが、大変だったようですね。
それを家忠が書き留めたというのもおもしろいです。
いろんなところで、歴史が繋がってきて、今まで知らなかったことが分かるというのは、そう快な気分ですね。