愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(2) 西三河地方

2013年08月25日 06時37分00秒 | 歴史史料
三河一向一揆の始まり
 さて、松平記には巻二に三河一向一揆についての記述があります。現代語に自分なりに訳したものを記載します。はじめは、事の起こりについてです。

家康の家臣菅沼藤十郎が上宮寺に入り、もみを取って帰る
一 永禄5年(1562)<1>の秋の終わりごろ、三河に住んでいる徳川家康の家臣、菅沼藤十郎定顕<2>というものが砦を作り、その兵糧として佐々木の上宮寺に行き、干してあったもみを取って、城に帰った。

上宮寺ら三ヶ寺が菅沼から取り返す
しかし、この寺は三河国の三ヶ寺<3>の一つである。残る2ヶ寺(野寺本證寺、針崎勝鬘寺)の僧侶たちが寄り集まって話し合った結果、「この寺は、この三河国にもともとあった寺であり、開山したときからずっと税金を取られず、武士が犯罪人を捕まえようとして立ち入ろうとしてもできない不入の地<4>である。このような甲乙人(輩)<5>の乱暴が許せるような所ではない。将来のため戒めなければならない。」として、農民たちを催促して菅沼藤十郎の城へ行き、菅沼の者たちを打ち、雑穀をたくさん取り返して帰った。

家康家臣酒井雅楽助が使いを上宮寺にだすが、きられてしまう
菅沼藤十郎は大いに怒り喧嘩を起こそうとしたが、かなわず、このことを酒井雅楽助政家(うたのすけ まさいえ)<6>に話した。政家はこれを聞いて使いを上宮寺に遣わしたが、その使いが切りつけられてしまった。

酒井雅楽助、上宮寺に行き「狼藉者」を逮捕する
家康はこれを聞いて政家に検断(逮捕)<7>を申し付け、上宮寺の狼藉者を戒められた。

一揆が起こる
それで、寺の坊主の檀那ならびに末寺、末山、土民、百姓らは一丸となって一揆を起こし、駿河衆がいるところにも、お触れを送り家康に対して反抗するよう促がした。また三ヶ寺の寺を城に構えた。家康の譜代衆の中のこの宗旨の檀徒は、一揆の一味となり、家康に逆心をなした。


<1>一揆の起こった年については、永禄5年説と永禄6年説がある。「松平記」「三河物語」は、永禄5年に事件が起こったとしている。ただし、「三河物語」は、本證寺で事件が起こったとしている。「参州一向宗乱記」は、永禄5年(或いは6年)に本證寺で事件が起こったと記述している。新行氏によれば、永禄5年はまだ東三河の国人武士たちと家康が戦っている時で、一揆まで手が回らなかったはずとし、5年に事件が起こり、一揆との戦いは、6年に始まったとしている。

<2>この菅沼藤十郎(定顕・さだあき) 西尾城酒井雅楽助政家(正親)の家臣らしい。菅沼の砦は佐々木(佐崎)にあったらしい。菅沼の存在について、否定する説もある。

<3>有名な三河三ヶ寺であるが、どのような経緯で三ヶ寺と呼ばれるようになったか不明である。

<4>不入の特権は、家康の父広忠が上宮寺・本証寺・勝鬘寺の三河三ヶ寺に認めた検断権(逮捕)の拒否、年貢・諸役の免税であった。
三河の本願寺教団は、この特権をもとに寺内町を形成し、寺内から取り立てた諸税を本願寺に上納したり、家康家臣に貸し付けたりして裕福な宗教ブロックを形成していた。
三河統一を目指す家康としては、必然的に解体を計らねばならぬ存在であった。(HP「三河松平家臣団の城郭跡」より)

<5>甲乙人(こうおつにん)とは、中世日本で使われた語で、年齢や身分を問わない全ての人。転じて、名をあげるまでもない一般庶民のことを指した。

<6>酒井雅楽助政家 「愛知県史 資料編11 織豊1」では酒井雅楽助を<政家>と解読している。酒井正親と同一人物である。

<7>検断(けんだん)とは、中世の日本においては警察・治安維持・刑事裁判に関わる行為・権限・職務を総称した語で、罪科と認定された行為について犯人の捜査と追捕(逮捕)、その後の取調と裁判、判決の執行までの一貫したプロセスを指す。
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