8月に牛久保城、吉田城に行きました。
牛久保城は現在のJR牛久保駅の辺りです。

牛久保駅
牛久保駅から線路をまたいで、すぐ左手に牛久保城の看板がありました。

牛久保城の看板
説明の文章は以下の通りです。
この地にあった牛久保城は、享禄2年(1529)一色城主牧野成勝が今橋城主(のちの吉田城主)の信成の命を受けて築城したといわれています。扇状台地の端につくられた平城で、南は遠く下郷の地を一望でき、北には二重の堀をめぐらせた城でした。城を取り囲むように、武家の屋敷が配置され、その北に町人の家が通りに面して連なり、さらに周辺に寺院があって外敵に備えていました。城に向かって真っすぐに入る道はなく、すべての道が曲尺手になっていて、近世の城下町の先駆けをなすものだったようです。のちに、牛久保は天領となり、元禄13年(1700)廃城になりました。いまは、昔の面影はなく、JR牛久保駅周辺にある「城跡」「大手」「城下」等の地名がわずかに昔を偲ばせています。豊川市教育委員会
牛久保城の古絵図も看板に描かれていました。
牛久保城古絵図
この看板の奥に石碑が立てられていました。

牛久保城跡碑
この石碑のある所から、南東を見ると低くなっていて、城のある場所が高くなっていることが分かりました。説明文で言う「扇状台地」になっていました。「国土院地図」の「陰影起伏図」で見ますと、牛久保城が河岸段丘の端に造られていることがよくわかります。

国土院地図・陰影起伏図より
説明文の「城跡」「城下」は運転しながら見つけることができました。(運転中で撮影はできませんでした。残念)「中屋敷」という交差点があり、関係あるのかも知れないと思いました。

グーグルストリートビユーより「中屋敷」交差点
牛久保城は現在のJR牛久保駅の辺りです。

牛久保駅
牛久保駅から線路をまたいで、すぐ左手に牛久保城の看板がありました。

牛久保城の看板
説明の文章は以下の通りです。
この地にあった牛久保城は、享禄2年(1529)一色城主牧野成勝が今橋城主(のちの吉田城主)の信成の命を受けて築城したといわれています。扇状台地の端につくられた平城で、南は遠く下郷の地を一望でき、北には二重の堀をめぐらせた城でした。城を取り囲むように、武家の屋敷が配置され、その北に町人の家が通りに面して連なり、さらに周辺に寺院があって外敵に備えていました。城に向かって真っすぐに入る道はなく、すべての道が曲尺手になっていて、近世の城下町の先駆けをなすものだったようです。のちに、牛久保は天領となり、元禄13年(1700)廃城になりました。いまは、昔の面影はなく、JR牛久保駅周辺にある「城跡」「大手」「城下」等の地名がわずかに昔を偲ばせています。豊川市教育委員会
牛久保城の古絵図も看板に描かれていました。

牛久保城古絵図
この看板の奥に石碑が立てられていました。

牛久保城跡碑
この石碑のある所から、南東を見ると低くなっていて、城のある場所が高くなっていることが分かりました。説明文で言う「扇状台地」になっていました。「国土院地図」の「陰影起伏図」で見ますと、牛久保城が河岸段丘の端に造られていることがよくわかります。

国土院地図・陰影起伏図より
説明文の「城跡」「城下」は運転しながら見つけることができました。(運転中で撮影はできませんでした。残念)「中屋敷」という交差点があり、関係あるのかも知れないと思いました。

グーグルストリートビユーより「中屋敷」交差点
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