愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

菩提山城(1)竹中陣屋 岐阜県不破郡

2021年04月19日 11時34分01秒 | 岐阜県
 菩提山城は天文13年(1544)ごろ地元の豪族岩手氏の居城だったそうです。その後、永禄元年(1558)竹中重元(いわゆる竹中半兵衛の父)が岩手氏を滅ぼし、永禄2年(1559)菩提山城を築いたそうです。竹中重元は、永禄3年に死去したので、子の重治が家督を継ぎました。有名な竹中半兵衛です。

竹中半兵衛像(竹中陣屋にて コロナ禍の中マスクをしていました)

半兵衛は秀吉の「三顧の礼」で家臣となり、黒田官兵衛と「両兵衛」と呼ばれました。秀吉の戦いの参謀として活躍しましたが、天正7年(1579)中国攻めの時に病気で亡くなりました。その後は子の重門がつぎました。重門は菩提山城を降りて、麓の岩手に館を構えました。菩提山城は、その時点で廃城になりました。

竹中陣屋(菩提山麓の岩手にあります)

関ケ原の戦いでは、はじめ竹中重門は西軍に味方していましたが、井伊直政の仲介で徳川家康につきました。そして、家康側の砦として菩提山城を提供しました。NHKの「空から読み解く! 新説・関ヶ原」という番組では西軍のはじめの構想として玉城、松尾山城とともに関ヶ原に来た東軍を囲む城として菩提山城は位置づけられていました。

竹中陣屋は、江戸時代竹中氏が幕府の旗本として陣屋を構えていた場所です。現在は、白壁の櫓門、水堀の一部分、石垣の一部分が残っています。

水堀跡


櫓門北側の石垣跡

また近くには竹中氏が天保年間に文武両道を教えるためつくった道場菁莪(せいが)堂を記念した菁莪記念館がありました。その中に竹中陣屋の模型が置いてありました。

菁莪記念館


竹中陣屋模型(四角い堀に囲まれた部分が竹中陣屋です。門は右上にあります。陣屋の大部分は現在の岩手小学校の敷地となっています)大変広かったことが分かりました。

菩提山城 つづく


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