愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松尾山城(2) 岐阜県関ケ原町

2020年04月07日 06時35分59秒 | 岐阜県
馬出とされている遺構
本丸から虎口を抜けて南の方に出ると、曲輪があります。この曲輪は周りを土塁で囲み、ここから敵を攻撃できるようになっています。同時に、この曲輪を「馬出風(うまだしふう)」と見る方もいます。(中井氏など)確かに前方に堀切が左右に2本出ていて、敵の侵入を防いでいます。しかし、同時に、堀切の中央に土橋(どばし)がありますので、私は馬出とは言えないと思います。土橋から敵が容易に侵入できるからです。この曲輪を馬出だと考えるならば、この土橋はなかった、あとで造られたものと考えなければいけないと思います。

土橋(土塁も虎口があったかのように開けられている)

西の曲輪
松尾山城がしっかりした山城であることを示すものの一つです。この曲輪は、本丸の西側に谷を挟んで造られています。北と南に土塁を設け、特に南側は土塁の外にかなり険しい堀切(ほりきり)を造って防御しています。また本丸とこの曲輪との間の大きな谷は、南から侵入した敵を誘い込んで一網打尽にすることができます。

西の曲輪(南の曲輪から撮影、手前に大きな堀切がありました)

食い違い土塁
この谷の中に食い違いの土塁があります。敵がこの谷から本丸や西の曲輪に登ろうとしても食い違いの土塁によって勢いを止められ、周りから攻撃されてしまいます。

食い違い土塁(実際残っていたのは手前の土塁で、奥のもう一つの土塁は、付け根のところに名残りだけ残っていました。)

竪堀
西の曲輪の南側の堀切の向こうにまた一つ曲輪があります。この曲輪は周りに土塁もなく防御が緩くなっています。そこで、関ヶ原以前の城の跡なのか、1か月で間に合わなくて緩いまま、造りかけになっているのか説が分かれているようです。なお、南端の竪堀3本は必見と中井氏は言っています。

3本の縦堀

どうやって攻めていったの?
さて、この松尾山城から大谷吉継の陣にどこを通って攻めていったのでしょう。大谷吉継の陣跡は松尾山の北西にあります。でも、松尾山城からそっち方面に出撃するのが難しそうでした。その理由は、本丸の出入り口である虎口が関ヶ原とは反対の方向にあること、また本丸や腰曲輪の北側(関ヶ原側)には土塁などがあって、防御するようにはなっていますが、出撃するための道などが見当たらないこと、さらにいくつかある曲輪の配置や馬出、堀切等が関ヶ原とは反対方向(南側)から侵入してくる敵を想定して造られていることように思えたことです。どうやって大谷吉継の陣に攻めていったのか、疑問として残りました。

松尾山城 おしまい

コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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お疲れ様でした (城歩きマン)
2020-04-16 06:53:12
松尾山城跡の見学、お疲れ様でした。
城跡の隅から隅まで、全部見て回ったようですね。南端部の3本の竪堀までは見ていません。

それにしてもきれいな山城ですね。玄蕃尾城と比較しても引けをとらない残りの良さです。

5月の足助城は事情が許せば参加したいです。やっぱり山城は良いですね。
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下見で見ました (midorishako)
2020-04-18 14:06:13
城歩きマンさん
コメントありがとうございます。

実は、見学会では時間がなく、南端部の竪堀までは見れませんでした。下見の際の写真です。下見ではおっしゃるように隅々まで見て回りました。
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