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愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

小谷城(1) 滋賀県長浜市

2018年12月03日 09時38分40秒 | 滋賀県
お久しぶりです。
いろいろと野暮用が続き、ブログの更新ができませんでした。
10月13日、小谷城に登りましたが、そこから記事を少しずつ掲載していきたいと思います。

北陸自動車道、滋賀県を走っていますと、「小谷城スマート」というインターチェンジが最近できて、気になっていました。インターチェンジができるほど小谷城は人気なんだ、どんなお城だろうと。

小谷城のあらまし
小谷城は戦国3姉妹(茶々、初、江)で有名なお城です。この3姉妹は、小谷城の主浅井長政の子どもですが、浅井長政のおじいさんである浅井亮政という人が小谷城を築城したそうです。浅井亮政は、守護京極家の家臣でした。しかし、次の久政、長政の代になるにつれて力を増していったそうです。
浅井長政は、織田信長の妹お市を娶ることで、同盟関係を結びましたが、織田信長の越前(朝倉氏)攻めの時に反旗を翻し、反信長になりました。その後、朝倉氏と共に信長と戦いましたが、天正元年(1573)、信長に攻め滅ぼされました、


小谷山 正面の山が小谷山で頂上に大嶽(おおづく)城があります。右の山は小谷城の主要部分です。

登城コース

小谷城登城コース 「番所跡」にあった案内板を使いました。

小谷城の周辺には、虎御前(とらごぜん)山、丁野(ようの)山城、山本山城などたくさんの史跡がありますが、今回は上記のように小谷城に絞って登ることにしました。

小谷城戦国歴史資料館に車を停め、さっそく登り始めました。

追手道
すぐに「追手道」という表示がありました。案内板によれば、地元で「オッテミチ」と呼ばれているそうです。ここが所謂小谷城の「大手道」だったようです。

追手道案内

追手道を進んで行きますと、今度は屋敷跡がありました。「磯野屋敷跡」です。


磯野屋敷跡

屋敷跡は、ただの空き地でした。しかし、ここから出丸の北を通って小谷城の本丸へと続く一番最初の屋敷なので、重要な場所だったのだと思います。

磯野屋敷跡を通り、いよいよ山の中に入っていきました。出丸跡を見るつもりでいましたが、「出丸跡」を示す道案内を見つけることができず、結局出丸跡を見ることなく登っていくことになりました。

続く

安土城(2) 滋賀県近江八幡市

2016年07月07日 15時36分24秒 | 滋賀県
大手道
大手門の付近を見学した後は、いよいよ大手道です。ここに入るには入山料が必要でした。700円です。この遺跡の所有者でしょうか、摠見寺(そうけんじ)が受付をしていました。

大手道は、かなり長い石の階段でした。入るとすぐ上の方にスプリンクラーがあり、霧のようなものが出ていました。大変涼しかったです。

大手道

伝羽柴秀吉邸跡
大手道を登り始めるとすぐ左側に「伝羽柴秀吉邸跡」がありました。伝羽柴秀吉邸跡は、下段と上段の構成になっています。

伝羽柴秀吉邸跡の図(現地案内板)

櫓門
下段の入り口は、櫓門だったそうです。

下段の入り口。画像の手前部分に大きな櫓門があったそうです。


櫓門の復元画像(安土城考古博物館「安土城・1999」)

礎石からこうした櫓門があったことが分かったそうです。

「礎石は鏡柱を置く巨大な礎石や添柱用の小さな礎石など、大小あわせて9個発見しており、最大のものでは0.8m×1.4mの大きさがあります。これらの礎石の配列と両側の石垣の様子から、この建物は脇戸付の櫓門であることがわかりました。」(現地案内板)

すごいですね。礎石からここまでわかるとは。

「1階を門、2階を渡り櫓とする櫓門は、近世の城郭に多く見られるものですが、秀吉邸の櫓門はその最古の例として貴重です。」

と、案内板はその歴史的意義を語っていました。なるほどこれは近世の櫓門です。

近世の櫓門、金沢城橋爪門(二の門)

下段は、厩(うまや)だったそうです。現代風に言えば「駐車場」でしょうか。馬6頭が飼えるものだったそうです。

秀吉邸上段
上段が秀吉邸の本殿だったようです。

上段には礎石が並んでいました。

上段に残された礎石から上段の様子がわかったそうです。

秀吉邸全容の復元画像((安土城考古博物館「安土城・1999」)

なんとも立派な屋敷です。さすがは有力織田家家臣ですね。

安土城(1) 滋賀県近江八幡市

2016年07月06日 14時41分59秒 | 滋賀県
安土城に行きました。行かなければと思いつつ、なかなか行かない日が続いていましたので、思い付きでしたが、思い立ったが吉日とばかり突然に行きました。

大手門付近
安土城に着くと、さっそく石垣(石積み)が迎えてくれました。

安土城大手門付近

天主の模型
無料の駐車場から大手門の方へ行きますと、途中休憩所がありましたので、中に入ってみると、なんと安土城天主の模型がありました。

安土城天主の模型。

この模型は、5・6階部分を1/7のスケールで再現しているそうです。

4つの門の意味
さて、大手門付近は案内板で以下のようになっているようです。

大手門付近の図(現地案内板)赤字は書き加えました。

大手道の出口に大手門があり、左右に石積みがあったということです。


大手門推定地と左右の石積み

さらに、左右の石積みには4つの出入り口があったらしいです。4つの出入り口のうち3つが平虎口(普通の出入り口で、防御性が弱い)、西端の虎口が枡形になっています。

平虎口は、公の時の門?
このことに関して、現地案内板では、「織田信長は、安土城に天皇の行幸を計画していたことから、城の正面を京の内裏と同じ三門にしたのではないか、西枡形虎口以外の三門は行幸などの公の時に使用する門であったと推定されます。」としています。

身分ごとの門の使い分け?
しかし、千田嘉博「信長の城」によれば、「なお、大手道の起点になった山麓には石塁を設けて四つの門を開いていました。これも行幸のためではなく、室町時代から戦国期の武家儀礼に則った身分ごとの門の使い分けと考えるべきだと思います。人々が出入りできる門を区別して権威のありかを演出したのです。」と、行幸説を真っ向から否定しています。


西側石積みに設けられた平虎口


西側石積みに設けられた枡形虎口

どちらの説が正しいのか、分かりません。

上平寺城(3) 滋賀県米原市

2016年05月09日 14時41分50秒 | 滋賀県
弥高寺本堂
上平寺城を後にして、次の目的地「弥高寺跡」に向かいました。

弥高寺本堂跡は、広い台地状の遺構でした。中央の部分は出入り口です。

ここは大変眺望の良いところでした。

奥に見えるのは琵琶湖です。手前に見える山も山城の跡があったと説明されましたが、残念、山城の名を忘れてしまいました。

僧坊跡
本堂の下には僧坊の跡が段々畑のように続いていました。

僧坊跡

大堀切
また、本堂の背後の山には、大変大きな堀切がありました。

本堂背後の大堀切。ちょうど人が写っていますので、そのスケールの大きさが分かります。

大門
僧坊を下っていきますと、これも大きな大門という枡形虎口が残っていました。

大門跡

悉地院
最後は「悉地院(しっちいん)」というお寺に到着しました。

悉地院

弥高寺もまた立派な遺構がありました。背後の大堀切に大門という枡形虎口です。弥高寺が山城としての機能を持っていたということがよく分かりました。

上平寺城(2) 滋賀県米原市

2016年05月06日 16時06分10秒 | 滋賀県
以前「上平寺城」の見学記を掲載しましたが、途中になっていましたので、続編を掲載します。

以前の「上平寺城」記事


上平寺城址の概要(滋賀県教育員会パンフレット「京極氏遺跡群」より)

南北に細長く、曲輪は南の方から3つ連続してあります。一番南の三の丸には畝状の竪堀がいくつも伸びています。

畝状竪堀の一つ


竪堀も大きくて雄大でしたが、私は木が曲がっているのに感動しました。この辺りは、冬雪が降るので、その重さによってこのように弯曲したのだと思いますが、すごい生命力だと思いました。


三の丸


三の丸と二の丸の間の堀切


二の丸の周囲の土塁


本丸南西の竪堀


本丸


上平寺城はまずその立地に驚かされます。よくもこんな高いところに城を造ったもんだと感心しました。そして、そのスケールの大きさにも驚きました。土塁や堀切がとても大きかったです。さすが京極氏と思いました。